2016.03.16 [株式会社ヤマテン 代表取締役 猪熊隆之さん]
山×気象予報士 vol.2
黒味岳山頂からの屋久島・宮之浦岳
大学3年生の冬、富士山の合宿中に起きたアクシデントで、大けがをした猪熊さん。2年かけて回復し、そこから「第2の登山」をスタートさせます。
病に倒れそうになっても、山への思いは変わらなかった
- 正直、登山を辞めようとは思わなかったんですか?
皆は、辞めるだろうと思っていたみたいですが、私は登りたくてしょうがなかったです。もう就職して働いていたんですが、そのころ母校がチベットのチョムカンリに挑戦するという話があって。どうしても行きたいと思い、会社を辞めて、2年間のブランクを埋めるトレーニングを始めました。
- それで、チョムカンリへ?
私ともう1人で登頂したんですが、本当にいい登山でしたね。山は、自分の実力ギリギリのところを登るのが一番楽しい。当時の私にとっては、まさにそういう山でした。海外の山の魅力も知り、もっと多くの山を登りたいと思ったんですが、今度は劇症肝炎になってしまって…。そのころは定職に就いてもいなかったし、「このまま死ぬかもしれない」と、大きな不安を抱きました。何とか治ったんですが、内臓は足のけがとは違って、高所登山には致命的なんです。医者からも辞めたほうがいいと言われたのですが、自分で確かめたいという気持ちがあって。
骨髄炎から奇跡の復活でハーフマラソンを走れるように。大町マラソンにて
赤谷山からの剱岳。剱岳北方稜線を宇奈月から剱岳まで完全踏破
- …また山に?
そのころ、後輩が山で亡くなったり、講師を務めていた国立登山研究所で大きな事故があったり、母校の大学でも事故があったりと、いろいろなことが重なりました。母校の山岳部は、一時活動停止になっていたんですが、再開に向けて動き出したときに、コーチとして学生と山に行ことになりました。落ち込んでいる学生を何とか元気づけたいと思い、学生とともに再びヒマラヤに行き、高所でも体が動けることを確認できました。そこで、より困難な課題に挑戦したいと思い、2003年には社会人のクライマーとともに、エベレスト南西壁側壁から西稜という非常に難しいルートに挑戦し、登頂はできませんでしたが、非常に大きな経験になりました。ただ、体のダメージは大きく、登山から帰ってくると、40度前後の高熱に1週間程度うなされるようなことが続き、まさに命を削る登山だったと思います。
その頃は、既に山岳専門の旅行会社に就職しており、自分で企画を立ててツアーを組んで、どんどん忙しくなっていく中で、仕事は面白いけど自分のトレーニングに時間が割けなくなってきて、この先どうしようか…と考えていたときに、慢性骨髄炎が発症しました。
- 今度はどんな病気に…?
簡単にいうと、骨がどんどん腐っていく病気です。原因は、あの富士山のときのけがでした。それでまた、入院生活に。慢性化すると、完治が非常に難しい疾患で、症状が悪化するたびに入院して治療しなければなりません。多いときは、一年のうち半年は入院生活という中で、山登りどころか、今の仕事を続けていくことも難しいと思うようになりました。そこで、気象予報士が浮かんだんです。
- どうしてそこで、気象予報士が?
病気を抱えていても、自分の技術を使ってやっていけるかもしれないと思いました。実は、子どものころから、天気は好きだったんです。オタクって言ってもいいくらい。山岳部時代も天気予報が得意でした。気象予報士はもちろん、沢山いらっしゃるけれど、ヒマラヤやヨーロッパ・アルプス、ロッキー山脈やニュージーランドなど、自分ほど国内外で登山経験が豊富な気象予報士は多分いないだろうと・・・。だったら、ここを土俵としてやっていこうと思いました。
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