い~な 上伊那 2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

い~な 上伊那

2つのアルプスと天竜川からなる伊那谷の北部に位置し、雄大な自然に囲まれた上伊那地域。 この地域の自然、食、歴史や地域のがんばる人々など、私たち職員が見つけ、感じた上伊那の魅力と地域の活力を発信します。

神子柴遺跡に思いを馳せて

~ 神子柴石器が出土した神子柴遺跡の正体は? ~
 謎に包まれた石器が出土した遺跡自体も、大きな謎を持っています。
 それは、「この遺跡は、どういう空間だったのだろうか」という、遺跡の性質を問う謎です。この答えについては、大きく分けて4つの説が唱えられています。
1.住居空間だった!
 神子柴遺跡からは、黒曜石の鋭いナイフ(しかも皮を切った痕跡有り)や、道具としては「ワンセット(現代で言うならば、キッチン用品が一揃いあるようなものでしょうか)」と捉えることができる石器群が発見されています。
 一方で、土器類は見つかっていないそうです。世界的には、石器の出土する遺跡は往々にして土器もセットで出土するケースがほとんどだそうで、そう考えると、神子柴遺跡で石器しか見つからないのは、少し奇異に映りますね。
2.祭祀場(儀式の場)だった! 
 天竜川や伊那盆地を見下ろす高台にあった神子柴遺跡。目線を上げれば、南アルプスも中央アルプスも一望できます。このような立地条件から、この遺跡を祭祀場と考える説も唱えられています。
 また、黒曜石はよく呪術的な行為(生け贄用のメスに使われることもあるとか)に用いられることもあることから、黒曜石の尖頭器が出土した神子柴遺跡にもそのような機能があったのでは、と考えることもできます。
3.墳墓だった! 
 死者の副葬品として、きらびやかな加工品が共に埋葬されるのは、世界各国の遺跡で見られる現象です。古代の神子柴遺跡で生活していた人々も、きっと美しい黒曜石の尖頭器には特別な意味を見いだしていたのでしょう。
 神子柴遺跡も、発掘当初は墳墓説が持ち上がっていました。しかし、神子柴遺跡を墳墓であったとする説は、発掘が進むにつれて消えてゆきます。なぜなら、神子柴遺跡には「骨」の存在が一切無かったのです。
4.貯蔵庫だった! 
 優良な石器類の出土が多いことから、この遺跡は古代の貯蔵庫(デポ、と言うそうです)であったのでは、とする考えもあります。それも、ただ宝物を奥深くに閉じ込める「閉ざされた」貯蔵庫ではなく、近隣との交流を支える「開けた」貯蔵庫です。この考えは、岐阜県や新潟県産の石から作られた石器類が見つかっていることから浮上した仮説です。

~ そもそも神子柴遺跡が存在した時代っていつ? ~
 旧石器時代か、はたまた縄文時代か。神子柴遺跡の成立時期については、未だ論争の決着がついていません。
 なぜ定まらないのでしょうか。
 実は、土器が出土していないことから旧石器時代と考えられる一方、出土した石器の加工技術は縄文時代のものであるという、なんとも不思議な状況を呈しているのです。
 何を軸にして判断するかで結論が大きく変わってしまうがゆえに、長年研究者たちを悩ませている謎になりました。

 このように、石器は圧倒的な存在感を放っているのに、いざその正体を掴もうとすれば、雲のようにつかみ所がない。
 なんともミステリアスな遺跡ですね。

【神子柴遺跡発見の最大の功労者】
 数々の謎を有し古代日本史に一石を投じる神子柴遺跡ですが、当然のことながら発見者がいなければ今日の姿はありませんでした。この歴史的な遺跡を発見するに至ったのは、一人の教育者の情熱であったと言っても過言ではないでしょう。
 その人物の名は、「林茂樹」氏。
 1924年に現在の駒ヶ根市で生まれた林氏は、海軍で第二次世界大戦を迎え、終戦後は上伊那地域で教鞭をとる教育者となる傍ら、神子柴遺跡の発掘と保存に力を注ぎました。
 しかし前述のとおり、研究者や考古学会に多くの謎を投げかける神子柴遺跡の報告書は、その編纂にも苦労が伴い、林氏はその完成を見ることなく2004年になくなりました。
 それから4年、遺跡の発見から50年経ってようやく完成した報告書は、林氏の命日である2月9日に合わせて刊行されました。 今日からちょうど6年前、2008年のことです。

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