2015.10.16 [ アーカイブ ]
「歴史ある農業施設」について 第5弾 ~野々海池と水内開発~
【7月初めには満水状態です。】
それでは、何故『野々海池』を作らなければならなかったのかお話しします。
この地域は江戸時代の昔から食料の自給が難しく、食料の自給自足は古来からの夢でした。
社会的諸事情で農地が減ったうえ、大戦が終了して郷土へ帰るものが増えたため、食料事情はさらに悪化し、村内の食料生産量は需要の半分ほどだったようです。
そのため、山の上に池を作って水源とし、開田して食料の増産を図ることとなりました。
池の工事に使う資材は、下から標高差約800mを人や牛馬で担ぎ上げました。現在のように機械で荷揚げできず、大変なことだったと想像できますね。
【野々海池に上る途中から見下ろした様子です。下の国道から池まで、車の道のりで約10kmもありました。】
工事は村の人が人足として携わっていましたが、自分たちの田畑も作らなければなりませんでした。働き手の少ない中、毎日工事をしてくれる人を探しに向かった途中で、工事の中心となっていた高橋統祥(たかはしつねよし)さんが、遭難して亡くなるという痛ましい事故もありました。
【池のほとりには、高橋さんの功績をたたえて碑が建てられています。】
池の堤を築き上げるのも人力によるものでした。堤高14m・堤長62mを手作業で作り上げ、136万m3もの水をたたえる池となりました。
今年の夏の日照りでも、枯れることなく農地に水を供給しました。
【洪水吐直下の石積みです。建設当時のものではないでしょうか。】
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