2015.02.05 [ 文化・伝統 ]
石川数正 数奇な運命
里山辺の兎川寺(とせんじ)に石川数正夫妻の供養塔があります。石川数正は、幕藩体制のもとでの最初の松本城主で、天守閣を造営した人といわれていますが、実は謎の武将です。
もともと石川氏は徳川譜代の重臣で、酒井氏と並ぶ名門中の名門です。しかし、豊臣秀吉が徳川家康と争った小牧長久手の戦いの後、石川数正は、豊臣秀吉とよしみを通じて、家康のもとを去って秀吉のもとへ走りました。「岡崎出奔」という事件です。家康と秀吉の板挟みにあったとか、秀吉の将来に賭けたとか、様々な説があります。
天正18年(1590)、豊臣秀吉によって石川数正は、筑摩・安曇8万石の領主として松本に入りました。文禄元年(1592)、数正は朝鮮に出兵の帰途病死してしまいました。天守閣の創建年代は諸説ありますが、完成させたのは子どもの康長であるという説が有力です。その康長も慶長18年(1613)、「日頃の不義」を理由に改易されてしまいました。数正の出奔事件が背景にあるのかもしれません。
天守閣のほかに石川氏の足跡を示すものは市内にあまり残されていません。兎川寺は聖徳太子創建の伝承がある古寺ですので、ここに供養塔が築かれたのでしょう。このお寺に詣でると石川氏の数奇な運命を感ぜざるを得ません。
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