松本地域振興局林務課のAです。
仕事柄転勤する機会が多いのですが、松本で4年目の春を迎えることが出来ました。
本ブログでも頻繁に発信されていますが、松本地域には魅力的なものが沢山あります。
・・・が、何をおいても欠かせないのは、国宝松本城ではないでしょうか。

【南から望んだ天守】
江戸時代以前に建造された天守で現代に残っているのは、全国で12城しかありません。
そのうち国宝に指定されているのは、松本城・姫路城・犬山城・彦根城・松江城の5城になります。
姫路城は52万石の大大名 池田輝政が大改築、彦根城は18万石の譜代大名 井伊直継の築城、松江城は24万石の出雲・隠岐の国持大名堀尾吉晴の築城です。
松本城は石川数正(NHKの大河ドラマ「どうする家康」で、俳優の松重豊さんが演じていました。)、康長親子により整備されましたが、当時は10万石(8万石とも)の大名でした。
大大名が大きな城を構えることは当たり前ですが、個人的には石川さんよく頑張ったという気がします。
天守築造の時期については諸説あるようですが、松本市のホームページによると、文禄2年(1593年)から3年(1594年)にかけて行われたとしています。

【天守と月見櫓】
天守の内部に入ると、太くて立派な柱が目に入ります。
栂(ツガ)や松、桧(ヒノキ)など色々な樹種が使われています。(松本城-その歴史と見どころ- 金井圓編著 名著出版)
【※写真は天守内部の梁のものですが、太くて立派なことに変わりはありません。】
これらの木材がどこから来たのかはわかっていませんが、各地から用材が伐りだされていたことが想像されます。
文禄4年(1595年)には、宮村町武家屋敷、東町町人屋敷の建設のための木材を山辺山(300本)や島々山(600本)から切りだすことを許可した記録があるそうです。
近場では木材の確保が困難だったのでしょう。
小笠原時代に相当な濫伐がおこなわれ良材が乏しくなったので、松本藩は、御林(おはやし、留山をふくめた保護林)を設け森林の保護をおこなったそうです。
御林は里山辺、岡田、本郷、波田などにありました。
御林の樹種は、アカマツが最も多く、ヒノキ、サワラ、ネズコ(クロベ)、モミ、ツガなどが混生していたようです。(松本市史第二巻歴史編Ⅱ近世)
現在の地域森林計画でも、アカマツはカラマツに次いで多く、松本地域を代表する樹種と言えるでしょう。
ちなみにカラマツの植林が本格化したのは明治以降のことになります。
松本城の築城にどれだけの木材が使われたのかはわかりませんが、「松本市・塩尻市 東筑摩郡誌第二巻(歴史下)」によると、天守以下乾小天守及び櫓の用材石数は2.514石とのことです。
原木石では約5,000石、立木石では約10,000石、城郭全体では少なくとも15,000石以上の原木を必要としたと推定しています。(立木では30,000石以上か?)
1石 = 1尺 × 1尺 × 10尺 ということなので、なじみ深いm3(立方メートル)に直しますと30,000石×0.278 m3=8,340m3となります。膨大な数量ですが、今と違って人力での作業となるので驚きです。

【現地看板の松本城復元図】
明治になると、松本城は取り壊しの危機にさらされますが、市川量造が天守の保存を訴え尽力し取り壊しは免れることが出来ました。
その後、荒廃が進みましたが、松本中学校長となった小林有也が天守閣保存会を設立して修復に取りかかります。
先人たちの努力により、貴重な建物が後世に伝えられることとなりました。
昭和21年GHQが視察、解体修理の必要を認め、文部省に勧告します。昭和25年から天守の大修理が始まります。(昭和30年竣工)
今日、インバウンドで多くの方が、松本城を訪れますが、万国に共通する価値があるのだと思います。
その後も、黒門、高麗門と復興工事が行われ、平成8年には太鼓門枡形の復元工事が始まり、平成11年に完了しています。(「図説国宝松本城(中川治雄著 一草舎)」 によると太鼓門の大梁は樹齢140年余、長さ11mの松の大梁を使用しているとのことです。)
現在も、松本城の復元事業は進められています。(南・西外堀の復元等)
松本市教育委員会が平成11年9月に松本城およびその周辺の整備計画を作成し、幕末維新期の松本城の姿とすべく取り組まれています。
整備計画は松本市のホームページで読むことが出来ますが、一読しておくと、新しい松本城の観かたが出来ますのでおすすめです。

【北方向から望んだ天守】
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