2010.07.22 [■アレ☆これ☆信州]
Vol97■とく☆とく信州(週刊信州2周年記念連載)
素人蕎麦打ち名人の板倉副知事による連載
前号の『とっておき話』では、「蕎麦」は古代より救荒作物として人々の命を救ってきたことや、その食べ方は、“蕎麦がき”や“蕎麦がゆ”などにして食べていたことを書きました。
普段、私たちが食べている写真のような「お蕎麦」は、近世、特に江戸時代から日常の食として広まったとされ、最初は「そば切り」と呼んでいました。
<そばの歴史2>「そば切り」最古の文献
定勝寺
さて、この「そば切り」について現時点で発見されている最古の史料は、何と長野県木曽郡大桑村にある定勝寺(じょうしょうじ)に保存されていた文献に記録されているのです。
この文献は、天正2年(1574年)の2月に定勝寺で行われた仏殿等の修理について日記風に書かれた記録の一つで、その修理が終わった同年3月の竣工祝いの場で、金永という人物が、そば切りを振舞ったことが書かれているのです。
天正2年とは、室町幕府滅亡の翌年であり、武田と織田が闘った長篠の戦いの前年です。
矢印赤枠内に「振舞ソハキリ金永」と書かれている
それまでは、江戸時代に書かれた『慈性日記』(慈性は、近江多賀神社の社僧です。)の記録が一番古く、慶長19年(1614年)に江戸の常明寺で「そば切り」が振舞われたことが記されていますが、定勝寺での文献の発見により、一気に40年も遡ったことになります。
もともと小麦による「麺作り」の技法は中国から伝わり、上方から寺院を中心として各地へ広まっていったようです。
定勝寺にも応永29年(1422年)の年貢納下帳に「索麺(そうめん)」が出てきますから、木鉢や麺棒などの道具も揃っていたことでしょう。
また、文禄4年(1595年)の王滝村の年貢納払帳には、蕎麦の栽培が記録されています。
中山道を通じて木曽地方に伝わった「麺作りの技術」。そして古くから栽培されている「蕎麦」。
この2つが組み合わさり、小麦の代用として、あるいは小麦の補充として蕎麦が用いられて「そば切り」が誕生したとするのは想像が過ぎるでしょうか。
「そば切り」に関する最古の記録が、大桑村の定勝寺で見つかったことも決して偶然ではないと考えたいですね。
そば切り発祥の地について江戸時代の文献にいくつかの説が述べられています。
◆信州本山宿という説
宝永3年(1706年)刊の「風俗文選」には、「蕎麦切といつぱ、もと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける。」とあります。
本山宿は、中山道を木曽から松本平に出る境目に位置します。現塩尻市です。
国道19号を松本方面から木曽に向って行くと右側に「そば切り発祥の地・本山宿」という近年建てられた標柱があり、右に曲がると、地元の人達がやっているそば屋が1軒だけあります。
◆甲州天目山という説
江戸時代中期の国学者、天野信景の随筆集「塩尻」には、
「蕎麦切りは甲州より始まる。…中略…参詣の諸人に食を売りけるに、米麦の少かりし故、そばを練りて旅籠(食事)とし、その後、うどんを学んで今のそば切りになりしと信濃の人語りき」
この説は、信濃人に「そば切り発祥の地は甲州である」と言わせていますが、言葉を言い換えれば、当時から信濃説が強かったことを表しているとも言えるのではないでしょうか。
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