2022.09.01 [ 中信労政事務所 ]
多様な時代の寂しさ ~人生いろいろの光と影
過日、中信労政事務所が主催し、「心の健康づくりフォーラム」を松本合庁で開催しました。
ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。
講師は長野産業保健総合支援センターの方で、職場のメンタルヘルスについてご講演いただきました。
在宅勤務が増え、また育児や介護、あるいは自身が病気になったときにはその治療と仕事との両立など、働き方が多様になってきました。そうした時代のメンタルヘルス対策についてお話しいただきました。
新聞を開くと「多様な働き方」というフレーズを目にしない日はありません。働き方に限らず、「多様性」は時代のキーワードです。
不思議なのは、多様性が認められること自体は「よいこと」なのに、どうしてそういう時代になっても、なおメンタルヘルスが必要になるのでしょうか。
以下は、「多様性」とメンタルヘルスがどうつながるのか、筆者の個人的な意見を書いてみました。(講演とは関係ありません。)
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昭和も終わろうとするころ、島倉千代子の「人生いろいろ」という歌がはやりました。いろいろな人生がある。女性も世間に押し付けられた生き方をするのではなく、自分が好きなように「いろいろ咲き乱れるの」という、多少やけっぱちな感じはありましたが、どん底から再起するには開き直りも必要だと思えるような歌でした。このとき「いろいろ」という語には、束縛されている人を解き放つ思想が集約されていました。
のちに時の総理が「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」と答弁で使いましたが、このとき「いろいろ」は、外からの詮索を曖昧化する煙幕として使われました。同じ言葉ですが、人を自由にする機能もあるし、他者の立ち入りを阻む機能もあります。
「いろいろ」に似た言葉に「それぞれ」があります。
「それぞれ」というのは、多様性を重視した、お互いの存在を認めあう「よさげ」な言葉のように思えます。でも、この言い回しには、ちょっと寂しさを感じます。
たとえば、誰かが輪の中に入れないでいるときに手招きしていざなうのではなく、「人それぞれだから」と放っておかれるとしたらどうでしょう。軽く手を引いてもらえれば輪の中に入りやすいのに、「それぞれ」という、他人に干渉しない「やさしさ」が発揮されることで、逆機能的に「やさしくない」結果がもたらされてしまうのです。
なかには事情があって一人でいたいという人もいますので、そういう場合は放っておくにしくはないのですが、場合によっては、なかば強引に誘うことも「思いやり」になることがあります。
私の実感ですと、1990年代以降、日本では個人主義が急速に進んだ感があります。それ以前の1960-80年代に、地域や家庭の共同体は解体されてゆき、バブル崩壊にあわせて会社の共同体的側面も解体されていきました。今もそれは徹底されつつあり、コロナ禍でトドメをさされようとしています。
かつては「小さな強引さ」を「おせっかい」と呼びましたが、今や他人に働きかけるそうした「おせっかい」な行為は「うぜぇ」とケムたがられるだけです。たとえば、以前は、職場でも地域でも、独身の男女を見つけては仲をとりもつ世話好きな年配の女性がいました。昨今そういう人はすっかりいなくなりました。他人の特に色恋ごとに口をだすのは嫌われるからです(これは実の親でも同じです)。職場ですと、「おせっかい」ではすまされずハラスメントになってしまうかもしれません。
孤独は社会問題になっていますが、「おせっかい」や意図しないハラスメントを避けるには、流行りの「ナッジ」の手法を使うことができるかもしれません。ナッジでは、本人に意識されない程度に誘導が行われ、被操作感をあまり感じないように設計されます。それなら「うっせぇわ」と拒否されることもないでしょう。肝心なのは、強制するわけではないけれど、かといって自分まかせにしておくわけでもなく、望ましい方向に水路づけしていくことです。
「それぞれ」「いろいろ」は、自己決定の時代に親和的な言葉です。しかし、気をつけたほうがいいのは、場面によって、相手の個性を尊重して「人それぞれ」と言うこともあれば、異質な他者と深く関わらずやり過ごすために「人それぞれ」だからと目を逸らすこともあるということです。「それぞれ」という他者への配慮は、時にはありがたく、時には「水くさい」ものとして機能します。束縛されているときは、「それぞれ」がもたらす距離感は人を自由にしますが、いったん自由になったあとでは、「それぞれ」の距離感は人の孤独を深めます。「それぞれ」は、対象との相反する向き合い方を、どちらの意味でも指すことができる要注意な言葉ですから、どういう文脈で使っているのか、自覚的になったほうがいいかもしれません。
述べてきたように、「それぞれ」や「いろいろ」といった言葉は、発話の文脈により二つの相反するものの見方を内蔵しうる言葉でした。同じように「多様性」も両義的です。
「多様な働き方」では自由度は増大していますが、テレワークにしても育児にしても介護にしても、勤務先から切り離された少数者として行われています。また、「多様な働き方」というとき、特に関心が高いのは、終身雇用や年功序列といった慣行が崩壊しつつある現代における転職や起業などの新しいキャリア形成ですが、これもまた、勤務先と切り離され、自分自身の責任で開拓していかねばならないものです。このため、「それぞれ」の個人責任にされる「見放され感」も抱えることになります。
濃厚な人間関係で息苦しい昔に戻りたいとは思わないでしょうけれど、かといって個々人が切り離されたままでは不安になってきます。人が自分のアイデンティティを維持するとき参照するのが他者の反応です。「人生いろいろ、仕事もいろいろ」の時代では、他者という鏡の存在が希薄になり、反照的に自分のこともわからなくなってきます。「自分っていったいなんだろう」、「これでいいのだろうか」と不安になってきます。そうした不安もまた、それじたい批判のしようのない価値である「多様な生き方」ができる時代において、メンタルの不調をもたらすものになっているかもしれません。
人間関係の息苦しさか、バラバラになった空虚さか、どちらかを選ばなければならないとしたら、多くの人はバラバラでいることを選ぶのではないでしょうか。社会はそちらの方向に進歩しています。だから砂粒のようにバラバラでいることの不安を手当てするために、これからのメンタルヘルスは実存的な側面を重視するものになってくると思います。
ここ数年、「〇〇ガチャ」という言葉がはやっています。「ガチャ」という、この偶然性への怯えは、まさに実存的不安からくるものです。・・・が、これを話し始めると長くなるので、ここで一旦切り上げます。
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