じょうしょう気流 「上小(じょうしょう)地域」と聞いて、みなさんは長野県のどの地域を思い浮かべますか?「上小地域」は、上田市、東御市、小県郡長和町、青木村の2市1町1村からなり、群馬県の西側に接する地域です。「上小」には自然、歴史、文化、おいしい農産物など、さまざまな魅力がありますが、それらを上田合同庁舎の職員の目で見て綴り、皆さんにご紹介してまいります。

じょうしょう気流

「上小(じょうしょう)地域」と聞いて、みなさんは長野県のどの地域を思い浮かべますか?「上小地域」は、上田市、東御市、小県郡長和町、青木村の2市1町1村からなり、群馬県の西側に接する地域です。「上小」には自然、歴史、文化、おいしい農産物など、さまざまな魅力がありますが、それらを上田合同庁舎の職員の目で見て綴り、皆さんにご紹介してまいります。

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塩田平札所めぐり その3 第二番から第六番札所

上小地方事務所のF森です。

塩田平札所めぐりの旅。7月の始めに第一番札所の長福寺を訪れてから、あまりに暑いので札所めぐりは控えていましたが、がんばって第六番札所まで回ってきました。どれも、長福寺の南側、二十二の札所全体から見ると一番東側にあります。
(これまでのブログはこちら その1 その2

二番札所に行く前に、まず番外の「猫山観音堂」。長福寺のすぐ横にある生島足島神社から東へ2km弱行くと、「きこりん」という蕎麦屋さんがあって、そのすぐ横の道を行って約130段の石段を登っていくと観音堂です。江戸時代の元禄11年(1698年)の創建。宗派は真言宗智山派。木造の観音様が中にまつられています。「猫山」というちょっとした小山の中腹にあります。この山の名前は山の形から付けられたそうですが、そうした名前が付いたことで、養蚕が盛んだったこの地域ではお蚕様のネズミ除けとして信仰が寄せられたとか。上田市では、この周辺を「創造の森」事業として、平成5年から3年かけてあずまややトイレなど施設整備し、散策できるようになっています。

猫山観音堂から南西に歩いて約10分のところにあるのが、これも番外の「西光寺」。同じく真言宗智山派のお寺です。ここの阿弥陀堂(下の写真右)は県宝に指定されています。寺の言い伝えによると、弘法大師が仏像を彫刻し、小堂を建てたのが寺の前身だそうです。上田市の文化財マップによると、鎌倉時代、塩田城主が足利市の和尚さんをお迎えして開山したとのこと。猫山観音堂や町屋観音堂、来光寺薬師堂、石神釈迦堂はご住職がおられないので、このお寺でそれぞれの札所のご印をいただきます。


次に第二番札所の「町屋観音堂」。お寺は江戸時代元禄の頃に建てられたということですが、焼失してしまったそうで、今の建物は地元の公民館として利用されています。残念なことです。お寺があったことを思い起こさせるといってはなんですが、すぐ横に墓地があり、お参りに来ている方もおられました。

次に番外の「心月山 大円寺」。平井寺トンネル(平井寺峠)の横からせり上がる富士嶽山(ふじたけさん)の北の山裾にあって、長い坂道を登っていった眺めの良い場所です。これまでの札所のあたりがよく見えます。道元禅師が開祖の曹洞宗のお寺です。禅寺ですね。

第三番札所の「平井寺地蔵堂」は、場所がなかなかみつかりませんでした。大円寺の坂を下って、平井寺トンネルに行く主要地方道上田丸子線を横切って集落内の道をしばらく行くと、住宅と住宅の間に車の通れないような細い道があって、そこを登っていきます。竹やぶの中の道(といっていいのか、ほとんど草むらの中でしたが)を草をかき分け行くと、やっと地蔵堂がありました。林の中で集落の中からも見えません。でもお堂は、小さいながらもしっかりとした構えです。「平井寺」というお寺が廃寺になり、残ったお地蔵様を供養するため、大正時代に大円寺のご住職が建てられたのだそうです。したがって宗派は曹洞宗。


次に第四番札所の「来光寺薬師堂」。平井寺トンネル方面から上田丸子線を下ってきて、別所丸子線との交差点横に来光寺池というため池があり、そのすぐ近くにお堂があります。鈴子という集落の公民館の一角にあります。横幅が2~3mの小さなお堂ですが、格子戸の中に薬師如来像を見ることができます。宗派は真言宗智山派。

第五番札所の「石神釈迦堂」は、来光寺薬師堂から丸子別所線を別所温泉の方に行ってしばらくのところにあります。公道からお墓の中の道を行った奥のほうにお堂を見つけました。元は別の場所にあったということですが、いつの時代か、現在の場所に移築されたそうです。


この日の最後は、第六番札所の「青竜寺」。石神釈迦堂から別所丸子線をさらに別所温泉の方に行き、手洗池というため池の少し手前を左に入っていきます。明治時代にご住職がいない寺となり、その後は、学校になったり集会所に利用されたりしたそうです。学校であったことを示す看板が立っていました。お堂の戸や窓は板で覆われ、中を見ることはできません。

第四番札所の来光寺薬師堂や石神釈迦堂、青竜寺のあるところは「古安曽」という地籍ですが、石神釈迦堂から青竜寺に来る途中の道沿いには「安曽神社」がありますし、青竜寺の南側には「安曽岡山」があります。大和朝廷の頃、阿蘇の国(熊本県)の豪族が国造(くにのみやつこ)としてこの地に来たことから、「安曽」という地名が付いたということだそうです。

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