2014.01.29 [ 職員のみつけた情報コーナー歴史 ]
長崎の地から赤松小三郎を想う・・・(その3)
赤松小三郎はまさしくこれからの国の有り様を憂い、変えようとした人物だったのでしょう。
幕府は赤松を開成所(東京大学の前身)の教官として招聘しようとしますが、上田藩はこの申し入れを拒否し、上田藩のために尽力するよう赤松に上田への召還を命じます。
赤松は病気などを理由に上田に戻るのを先延ばしにしますがそれも限度があり、藩からの厳命によりついに上田に帰ることを決心します。
しかし上田に旅立つ前日の慶応3年9月、京都で赤松は凶刃に倒れます。
しかも赤松を手にかけた相手は薩摩藩で教鞭を執った時の教え子であった、池波正太郎の小説「人斬り半次郎」の主人公としても有名な中村半次郎(桐野利秋)でした。
そして、中村はその夜、三条大橋に”赤松は皇国の趣旨を失い、却って公を動揺せしめたことは不届きである”旨の斬奸状(悪者を切り殺す際の理由書)を張り出すのです。
赤松小三郎が暗殺されたとされる場所
(京都東洞院五条下ル、現在その場所に記念碑が建っている)
赤松小三郎、享年36歳。早すぎる死でした。
薩摩藩の内情に詳しい赤松をこのまま佐幕派の上田藩に返すわけにいかないと薩摩藩の西郷隆盛らが中村に暗殺を命じたという説が有力ですが、中村が暗殺の実行犯だったこと以外は多くが謎のままです。
薩摩藩と中村半次郎を含めた当時の赤松の門下生達が暗殺後に赤松の葬儀を執り行い、京都の金戒光明寺に墓を建て、150両もの弔慰金を出すなど丁寧に弔ったことがさらに謎を深めています。
赤松小三郎の墓(今戒光明寺)
いずれにしても、幕末の日本の大きな転換期において赤松小三郎がなした功績はそれだけ大きかったということでしょう。
(続く)
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