2013.02.06 [ 歴史・祭・暮らし ]
理兵衛堤防 ~江戸時代の大土木工事~
上伊那地域魅力発掘探検隊のNです。
今回は江戸時代に知恵と勇気で天竜川の災害に対峙した、中川村の「理兵衛堤防」について報告いたします。
伊那谷を南に向かって流れる天竜川は、流域に豊かな富をもたらすと共に、昔から氾濫を繰り返し、地元には「暴れ天竜」という言葉もあるほど恐れられてきました。
この天竜川が中川村内で大きく蛇行した南に「天の中川橋」があり、その際に「理兵衛堤防」が残っています。
一部は現在の堤防の上に移設復元されていますが、これは今からおよそ200年前の江戸時代に造られた堤防なのです。
関が原の戦いも終り、江戸時代になって世間も落ち着いてくると、各地で治水・利水事業が行われる様になりました。始めは幕府や藩により事業が進められましたが、財政が窮乏すると地元の有力者等の出資により行われる様になりました。
「理兵衛堤防」もそうした土木事業の一つで、当時の前沢村(現中川村)の大地主松村理兵衛とその子、孫が三代かかって造りあげたものです。
現在の中川村田島地区には田圃が広がりますが、江戸時代には「暴れ天竜」の度重なる氾濫や支流の前沢川の逆流により、何度も大きな被害に見舞われていました。
理兵衛は、この水害を防ぐ堤防を造ることにしたのです。
工事は、尾張から石工を招き、その指導の下に進められました。
まず松の生木を川底に沈めて敷き木とし、筏に大石を載せて沈めて基礎とします。
その上に大石を積むという工法ですが、もちろん今の様な重機などはありませんから、道具を使い人力による作業でした。
工事は寛永3年(1750年)に始められ、完成するまでに何と60年の歳月を要しました。
堤防の長さは180m、延べ50万人が従事したといいます。
その間に発生した洪水で何度も流され、それでも続けられた工事は、まさに苦労の連続でした。
莫大な私財をつぎ込み、後には願い出て幕府からの助成も受けましたが、3万両を超える出費に大地主である松村家も、とうとう借金をすることになったそうです。
こうして造られた堤防は、大水による被害を減らして人々に感謝されると共に、「理兵衛堤防」と名づけられて語り継がれることになりました。
残された石積みを見ると、実に大きな石がどっしりと積まれています。素朴な道具を使い、人力で自然の大きな力に立ち向かった当時の人々の勇気に感動させられます。
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