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諏訪の学び~「岩波・筑摩・みすず」を結ぶ点と線

定価が高いため私が持っているみすずの本は半数は古本です。古本でも2-3,000円しますので、学生にはとても新刊は買えない。最近だと『ライフ・プロジェクト』というコホート研究(同じ年に生まれた人たちがどういう人生をたどっているか定期的に追跡調査するもの。テレビ朝日の人気番組『あいつ今何してる?』を大規模かつ学問的にやっていると思えばよい)の本が面白そうなので手に取りましたが、本文が300頁ほどで定価が税込みで5,000円ほどします。翻訳本ですが、他の出版社なら半額の2,500円くらいで出すところです。高くても3,500円とか。そのくらいなら買いますが、5,000円は庶民の財布を開かせるには高すぎます。他の出版社は、売れる本で稼ぐので売れない良書を低く抑えることができるのでしょう。でも、みすずは売れない本がほとんどだから高くなるのかもしれません。

みすず書房の創業者、小尾俊人は1922年(大正11年)諏訪郡豊平村上古田(かみふった)(現、茅野市豊平)に生まれました。父の小尾栄は南信日日新聞の記者をやっており、左牛と号した歌人でもありました。

生家の場所 ↓

小尾

石碑 生家跡地にある小尾栄の歌碑

「生をうけし此處ぞ山河はうましもよ とはに幸あらむ人みなわれも 左牛」と刻まれています。

生家の前には小泉山という小ぶりな山があります。幼い小尾俊人が毎日見上げていた山です。でいだらぼっちが八ヶ岳を削って諏訪湖を埋めようと天秤棒でかついだ土を落としたのが小泉山になったという伝説があります。ここでちょっと驚くのは、岩波茂雄の生家(諏訪市中金子)のすぐ裏に小泉寺(しょうせんじ)という古いお寺があるのですが、片や小泉山、片や小泉寺、似ているなと思ったら、なんと小泉寺はもともと茅野市の小泉山のふもとにあり、戦国時代、織田信長軍の兵火により焼失し、諏訪に移転したというのです。小尾俊人と岩波茂雄には古いつながりがあったのです。

小泉山小泉山

昭和7年、俊人が10歳のとき、仕事の都合で一家は上古田から上諏訪町中町に移ります。父はその後すぐ独立して月刊誌「信州文壇」を創刊。昭和13年、俊人が16歳のときに上諏訪町大手に転居しました。この場所は上諏訪駅前の踏切を渡ってすぐのところで、今のシティホテル成田屋の向かいです。俊人自身は15年に上京するのでそこには2年しか暮らしていません。

俊人は尋常高等小学校を出て、岡谷にある県立蚕糸学校(在学中に岡谷工業学校と改称)に入学しました。蚕糸学校というのは中学校と同じく中等学校のひとつで、実業学校です。当時、義務教育である尋常小学校から中等学校への進学率は東京以外では1割ほどでした。昭和15年、実業学校を卒業し18歳で上京。父の発行する月刊誌「信州文壇」(昭和7年~17年)が売れなかったので、小尾は、いい雑誌を作っても田舎では駄目だ、東京にでようと思ったようです。岩波書店に入社したかったのですが、岩波茂雄から羽田書店を紹介され、そちらに入社することになりました。夜学に通いながら勤務しました。

羽田書店というのは、元首相である羽田孜(つとむ)の父、羽田武嗣郎が昭和12年に始めた出版社です。羽田武嗣郎は朝日新聞記者を経て昭和12年に衆議院議員に当選。その後すぐ、尊敬する岩波茂雄を顧問に開業した出版社です。武嗣郎は小県郡和田村の生まれで、これも諏訪に近いですね。

俊人は、羽田書店に3年いて、20歳のとき明治学院英文科に入学しますが、21歳で学徒出陣。内地の部隊を転属しました。敗戦時は23歳。復員後まもなく出版社設立準備に取り掛かります。昭和21年に事務所を開設し出版を開始。戦後乱立した出版社のひとつでした。

小尾には、旧制高校から東大を出た岩波や古田のような著作者との人的つながりなかったので、細いつてを頼りに書き手を探していきました。資金は羽田書店の社員2人が助けてくれました。

社名は当初、漢字の「美篶書房」でしたが、時代錯誤であるとして、ひらがなの「みすず書房」に改めました。「みすず」というのは、信州の枕詞である「みすずかる」から来ています。長野県には「みすず」と名の付くものは多いのですが、それを案じるような記事がネットにありました。以下抄録します。書き手は小学館国語辞典編集部の神永暁という人です。

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「みすずかる」の「み」は接頭語、「すず」は篠竹(すずたけ)で、その「スズタケを刈る」という意味なのだが、漢字で書くと「御篶刈」となる。スズタケは日本特産の主に山地の森林の下草として生える竹である。

「みすずかる」は、もともとは『万葉集』に出てくる語なのだが、隣接する短歌二首(巻二・九六、九七)にしか見られない。いずれも、「水(三)薦刈る 信濃(しなの)の真弓(まゆみ)」の形であるため、信濃にかかる枕詞(まくらことば)だと考えられている。「真弓」は弓の美称である。

ところで、注意深い方ならすでにお気づきかもしれないが、「みすずかる」の漢字表記は「み篶刈」だが、『万葉集』の漢字表記は「み薦刈」で、「篶」と「薦」が異なるのである。

「薦」は「篶」とは読みも意味も全く異なる漢字で、「こも」と読みマコモの古名である。マコモは水辺の生えるイネ科の多年草で、編んでむしろを作る。酒だるの「薦被り」の「こも」だというとおわかりいただけるかもしれない。

「みすずかる」という語は、江戸中期の国学者賀茂真淵(かものまぶち)が『万葉集』にある「み薦刈」を「み篶刈」の誤字であるとし、それを「みすずかる」と読んだことで広まった。(略)

「みすず飴」が作られたのは「みすず飴本舗飯島商店」のホームページによると明治末年からのようだが、その時代は「みすずかる信濃」という言い方がふつうだったのである。

ところが、昭和に入って国文学者の武田祐吉(たけだゆうきち)が『万葉集全註釈』の中で誤字説を採らず「み薦刈る」のままとし、しかも「みこもかる」と読むべきであると主張したため、現在では、この武田説が主流になっている。

「みすずかる」は以上のような経緯で生まれた語で、万葉学的には葬り去られた語かもしれないが、辞書的には挙例のような一茶などの用例もあり、立派に存在していることばなのである。」

「日本語、どうでしょう?」http://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=302

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