信州魅力人

信州の魅力、それは長野県内で頑張るつくり手たちの魅力。そんな魅力人の想いをお伝えします

皆が忘れていくようなことを残すことが仕事

信州紬(つむぎ)の伝統工芸士・小栗弘平さんは、1932(昭和7)年生まれの今年79歳。その技術は高く評価され、数多くの賞を受賞してきました。シルクロードから渡来したとされる伝統的な織物「太子間道(たいしかんとう)」の復元や、長野オリンピック公式写真集の表装なども手がけてきた小栗さんに、これまでの数々の仕事や現在開発している新製品のこと、絹のこと、飯田のこと…さまざまなお話を伺いました。

個性あるものづくりー「太子間道」復元へ

-小栗さんが織物のことを始めたのはいつごろですか?

小栗家のルーツは岐阜県の旧日吉村(現土岐市)で、明治に入って飯田に移り、今の場所で染織を始めたのが1915(大正4)年ごろと聞いています。私は3代目になるのですが、高校を卒業してから携わるようになったので、もう60年近くになります。

信州伊那谷は、養蚕地区として栄えていました。昭和30年代は、飯田紬織物に没頭していたというか、生産性を上げるために働いていましたね。昭和40年代に入り、叔父から「個性あるものづくりをしなければ、これからの時代は生き残れない」と言われて、そこから考え方が変わりました。

-「太子間道(たいしかんとう)」と出会ったのはそのころですね。

「太子間道(広東小幡)」の絵図面が掲載されていた「世界美術館全集・東京国立博物館Ⅱ」(講談社刊)が1967(昭和42)年の発行ですから、そのころですね。「太子間道」は法隆寺や東大寺正倉院に残されている代表的な絹絣(きぬかすり)織物の一種で、経糸(たていと)によって絣柄(かすりがら)で縞を表現しているのが特徴です。経糸は1センチ間に約50本、緯糸(よこいと)は1センチ間に21本。経糸が細く密度があります。約1300年前にどのような技法で作っていたのかはわかりませんが、いつかはこの「太子間道」を織ってみたいと思いました。

-どのようにして復元したんですか?

小栗さんが復元した「太子間道(たいしかんとう)」小栗さんが復元した「太子間道」

きっかけはインドにありました。1979(昭和54)年に、日印協会主催で染織服飾研修の企画があって、インドとスリランカへ行ったんです。

当時は先染め紬織物を主とする研修旅行が毎年あって、国内の先染産地は大半回っていたのですが、各地の絣を中心とする織物を見聞すると、今度は絣の源流点とも言われるインド・インドネシアの伝統的な絣「イカット」について知りたいと思うようになって…そんなときにタイミングよく研修の企画があったので、参加することにしたんです。

滞在中に、パタンという町にある工房を訪ねたのですが、そこでは、インドで最高級の絹の経緯絣(たてよこがすり)「パトラ」をインドの人間国宝ともいうべき称号を受けた職人が織っていました。私は経緯絣の源流を見た思いがしましたね。そして、織りの様子を見ているうちに、「太子間道」の謎が解け始めたように思いました。

その後、国会図書館で調べたり、「太子間道」の原寸大の写真が掲載された本を見たりして、これまでの経験を活かせば私が織り上げることも可能と判断して「太子間道」の制作にとりかかりました。満足できるものに仕上がるまでには時間がかかりましたよ。結局、7年近くかかって技法をマスターして、作り上げました。

皆が忘れていくようなことを残すことが仕事

-「繪服(にぎたえ)」の依頼が来たのはその後ですか?

那美屋織物(飯田市) 小栗弘平さん

1989(平成元)年、日本民族工芸技術保存協会から依頼を受けました。「繪服」は天皇即位の大嘗祭に進上するもので、神座の最も近くに目の粗い竹かごに入れて安置され、供進されるそうです。普段、我々には馴染みのないものですが、伊勢神宮では春と秋に絹(和妙・にぎたえ)と麻(荒妙・あらたえ)を神御衣(かんみそ)としてお供えするお祭りが行われています。「繪服」と「和妙」、どちらも「にぎたえ」で二つはイコールなんです。

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