2022.11.09 [ 北信農業農村支援センターからのお知らせ ]
北信農業農村支援センターだより⑩「今では当たり前!‟苗箱育苗”の発祥の地・飯山」
お久しぶりです。信州放牧豚です
先日、飯山城址に建立されている「松田順次記念碑」と、農業試験場飯山試験地跡地にある「水稲箱育苗発祥の地」碑の清掃を「松田会」に誘われ、行ってきました!
「松田会」は、昭和27年に発足した「奥信濃早植研究会」が前身となっている、松田順次氏の功績を称え今後に伝えていこうという集まりで、県農業試験場のOB、水稲農家、JA、飯山市などで構成されています。
この日は、記念碑を清掃し、しめ縄を張りました。碑の横には松田順次氏の功績が記され、裏には建立の経過が刻まれています。
ところで、「松田順次」とその「功績」は何なのか?
今回は松田順次氏の功績について、お伝えしたいと思います!
松田順次氏は、昭和20年代から20年余り長野県農業試験場飯山試験地に勤務し、その間(昭和32年)に水稲の室内箱育苗法を開発した長野県の職員です。
皆さん、稲の田植え作業をイメージしてください。
四角いマット状の苗を乗用田植機にセットして、田植機が等間隔に苗を植えていく・・・このような感じですが、この「四角いマット状の苗」=「箱育苗」を開発したのが松田順次氏です。
豪雪地帯の飯山は雪解けが遅く、4月いっぱいまで雪が田畑を覆います。
雪が解けてから種をまき、30~50日かけて大苗を作ると、田植えが遅くなり、収量が増えないのが課題でした。
「田植えを早くしたい」―そんな農家の声を聞き、松田氏は研究と試行錯誤の末に「稚蚕飼育用木箱(30×60×3cm)に土をつめて加温し、室内で苗を育てる育苗法」を考案しました。
当時は、大苗が健苗とされ苗づくりの基本といわれていた時代。稚苗を植えることは革新的過ぎて偉い先生から罵倒されたそうです
しかし、現場では、この箱育苗で田植えが1か月ほど早まって収穫量が150㎏も増加し、農家からは大変感謝されました
この箱育苗は、飯山から岳北地域、新潟、東北へと広がります。
さらに、根が絡まない小さい苗であることから田植え機の開発が進み、稲作づくりの機械化が確立しました。
現在の苗箱も、当時のままの30×60×3cmとなっています。
現代の箱育苗はこんな感じ。資材はより良いものが開発されて進歩しましたが、箱の大きさは昔のままです。
飯山城址にある松田順次氏の記念碑は、地元や新潟の農家ら約8,500人が米を一升ずつ出し合って昭和37年に建立されたと碑に彫られています。松田氏が退職する2年前でした。
こちらは飯山試験地跡地にある「水稲箱育苗発祥の地」記念碑。平成6年に市町村・農協が出資して建てられました。
松田氏は短冊状に連なる土付き稚苗の技術も開発しています。
県農業試験場には苗箱が残されています(この日は農業試験場が持参)。
このブログへの取材依頼や情報提供、ご意見・ご要望はこちら
北信地域振興局 総務管理課
TEL:0269-23-0200
FAX:0269-23-0256