初夏にぴったりな爽やかな甘酸っぱさが特徴で、これからまさに旬を迎えるあんず。
長野県の千曲市森・倉科・更科地区と、長野市松代町東条地区は、全国有数の産地として知られています。
今回はこれらの地域の文化や歴史とも深く関わるあんずの魅力や、産地ならではの楽しみ方をお伝えします。
千曲市歴史文化財センター 所長 稲玉 修治さん
きれいなオレンジ色と爽やかな酸味で、生食にも、加工品としても重宝される「あんず」。長野県は青森県とともに、全国有数の生産地として知られています。
諸説ありますが、長野県では今から1000年以上前からあんずの栽培が行われていたそう。平安時代中期の法典「延喜式」にも、当時の税の一種「調」として、信濃の国からあんずの種が納められていたとの記録が残っています。また、1673年には松代藩主真田幸道公の元へ宇和島藩から輿入れした豊姫が故郷を偲ぶためにと唐桃(今のあんず)の苗を持参、庭先に植えた1本の苗木から杏の栽培が善光寺平に広がったとも言われています。
長野市松代町にある恵明寺内に佇む豊姫の御霊屋
江戸時代、北は飯山市、南は千曲市あたりまでの長野県北部一帯を治めた松代藩が奨励したことであんず栽培はさらに拡大。松代藩のあんずは「あんず干し」などの保存食、種(杏仁)は薬用として、江戸方面に出荷していました。しかし、明治維新により諸大名の往来や交流がなくなり、さらに殖産興業政策の一環で製糸業が勃興すると、県内全域で生糸の原料となる養蚕が盛んになり千曲市でもあんずの木から桑の木へと植え替えが進みました。
このような変遷がありながらも、あんずの栽培が続けられてきたのはなぜなのでしょうか。
「あんずの在来種の樹木は、大きいものでは7mを超えます。そのため、この地域では隣家との境目を示すものとしての役割も果たしており、自家用レベルでは栽培され続けていました。養蚕に移行した中でも、あんずの木は地域の人々の生活に寄り添う存在だったんですよ。このように、この地の人々には身近な存在であることに変わりなく、1893年に幹線鉄道の信越本線が開通し、東京方面への販路が再生したことで、あんず生産も昔の勢いを少しずつ取り戻してきたのではないでしょうか」と教えてくれたのは千曲市歴史文化財センター所長の稲玉修治さん。
今もあんずの木が植えられている千曲市森地区の民家
加えて、明治維新以降、海外からさまざまな工業技術が入ってくる中で加工技術も発展。特に、長期保存のきく缶詰の生産が始まり、遠方にも出荷できるようになったことが、あんず栽培飛躍の一因を担ったともいわれています。
さらに、在来種に比べて約3週間〜1ヶ月近く早生の新品種「平和」が、大正時代に森村で偶発的に発見されました。収穫時期が早いことに加え、在来種が1粒30g程度なのに対し、1.5〜2倍の大きさとなる45〜60gあることで収穫量が増え、収入につながることから一気に栽培が拡大。一時は出荷するあんずの中で「平和」が8割ほどを占めていたと言われています。
平和
最盛期の栽培規模について伺うと、
「見渡すかぎりのあんずの花が咲き誇る絶景は “一目十万本”とも言われていますが、実際は多かったときでも4万本ぐらいだったのではないでしょう」と稲玉さん。
今回お話を伺った稲玉修治さん
しかし、現在は農家の高齢化が進み、跡継ぎがいない農家では木を切ってしまったり、温暖化などの影響もあり生産量は減少傾向とのこと。地域の歴史や文化との関わりの深い、あんず栽培の伝統は絶やさないためにも、産地ではさまざまな取り組みが行われています。
千曲市ではあんず製品のブランド化をすすめるほか、あんずから抽出された酵母をチーズやパン作りに活用し新たな地域の特産品を生み出すような動きも見られるとのこと。
また、旧松代藩の城下町、長野市松代町東条地区では30人ほどの農家が集まって「楽農クラブ」を組織し、遊休荒廃農地を整地するなどの地道な活動に取り組んでいます。歴史あるあんず栽培と美しい景色を守る、新たな取り組みに要注目です。
※この記事は2022年6月時点の情報です。取扱商品等は変更になっている場合がございますので、ご了承ください
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