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【休館33日目】保科百助:知を分かちあうこと

平成31年1月9日(水)、休館中の営業日33日目。

 

「こんなに和書があるんだねぇ」

閉架書庫のあちこちに分類順に分散していた明治時代の「信濃図書館」(※)の本を抜き出し並べてみると今更ながらそんな声が漏れます。

※ 信濃図書館についてはこちらも https://blog.nagano-ken.jp/library/2018/12/26/kyukan20/

明治40年代には江戸の教養がまだ大切だったのか、それとも何か理由があるのかなと色々想像します。

 

そんな中、ひと棹の漢籍の本箱を発見!「『綱鑑易知録』三十六冊保科丈之助正隆蔵本」との箱書き。

もしかして信濃図書館の設立時に活躍したという保科百助に関係あるのかしらと箱の側面を見ると「長野市教育(会)附属図書館創立事務所内保科百助殿」との宛名書きがあるではないですか。保科百助宛に寄贈された本に違いありません。

 

保科百助は県立長野図書館の前身である信濃図書館の設立に向けてもっとも熱心に活動した人物です。

「にぎりきんの五無斎」と呼ばれ、実物に触れることや実験を重視し、子どもたちが自主的に考え学ぶべきだという実践主義的な教育を唱え、行った教育者です。信州教育の源流ともいうべき教育者たちの一人で、新田次郎の小説「聖職の碑」にも主人公である赤羽校長に影響を与えた教育者として登場します。

明治34(1901)年に33歳にして蓼科高等小学校・蓼科実業補習学校(現・長野県蓼科高等学校)の校長職を辞してからは、私塾を開いたり、筆墨・岩石標本の販売、後には週刊新聞「信濃公論」の発行などを生業としました。

明治40(1907)年に信濃図書館の設立開始が決まると図書館創立係員に任命され、家業を投げ打ち奔走します。その様子が『県立長野図書館三十年史』(P.9)にあります。

 

「教育会が図書館を建てるに至った動機は、五無斎君の発議と熱心に基づいたのである。君が総集会のある度に、図書館の必要性を絶叫した。」

ようやく設立のはこびに至り、設立委員に任命され「設立費予算を見るとまとこに少なく、図書費などなきに等しい。」「書籍無き図書館があるかというわけで、一同辞任しようとしたが、五無斎君まあまて何とか工夫しようではないかということになった。そこで委員会は更に熟議をこらし、書籍は全て寄付又は保管ということにして、蒐集しようではないか。各委員手わけして師範小学校の教員並びに蔵書家をまわって、図書の寄付を仰いだ。」

「この際にあたって、設立委員先ず寄付すべしとのことであった。五無斎君直ちに車を引いて自宅に引き返し、漢籍をはじめ」「それこそ雑誌一冊も残さず積みこんで引いてきた。」そして、この上なく愛蔵していた鉱物学書をも「この本は図書館に一冊はなくてはならぬ本だ。寄付する。そして見たい時は図書館へ来て見ることにすると、此の様子を見、此の言を聞いた委員一同は、一種の感にうたれた。」

 

この結果、信濃図書館は当時の地方の図書館としては規模の大きな蔵書3万5,000冊で開館を迎えたのでした。和書がたくさんあるというのは、実は寄贈に頼った収集の影響があるのかもしれませんね。

 

こうなると、保科百助が「この本は図書館に一冊はなくてはならぬ本だ。寄付する。そして見たい時は図書館へ来て見ることにする」と言った本が見たくなりますよね。

その一冊がこの本 “MANUAL OF MINERALOGY AND PETROGRAPHY” Dana, James Dwight  (1887)、保科が生涯にわたり市井の実践研究・教育者として携わり続けた鉱物学の洋書です。

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