山あいにこんこんと湧き出る温泉に浸かり、まるで人のような表情でくつろぐサルたち。「スノーモンキー」の愛称で親しまれているこの風景をひと目見ようと、地獄谷野猿公苑(長野県山ノ内町)にはインバウンド(訪日外国人旅行)を中心に多くの観光客が訪れています。長野とシンガポールを拠点に、訪日観光客の受け入れ支援を行う株式会社まちノベイト代表の笠原崇広さんは、独自の視点から長野の観光産業のイノベーションを進めています。
株式会社まちノベイトのスタートは2013年です。新卒で日本興業銀行に就職し、その後、インフラを中心に戦略コンサルティングや投資銀行業務に関わり、その経験をもとにシンガポールでインフラファンドに立ち上げから参画しました。そのとき、東南アジアを中心とするアジアの中間層の台頭という大きな流れを体感したんです。世帯年収の中央値でいうとシンガポールが1,000万前後で、日本がおよそ400万円強ですから倍以上になっています。所得が上がって裕福になれば、電力消費も増えるし、旅行のニーズも増える。この勢いに注目したんです。
それと同時に、生まれ育った長野にいつかは貢献できないかと考えていました。周りの外国人の友人に聞くと、日本の自然リゾートというと北海道しか知らないんです。まだインバウンドという言葉もメディアで取り上げられることもなかった時代です。日本人にとっては、長野も北海道も自然のリゾートとして知られていますが、外国人には圧倒的に北海道の知名度が高くて長野はほとんど知られていない。海外でしっかりしたマーケティングが行われれば、長野を目的地として選んでもらえる可能性は非常に高いのでは、と思いました。
長野は、雪や温泉など高温多湿な東南アジアにはまったくない観光コンテンツを持ち合わせている。東京・京都というインバウンドに人気のエリアのちょうど中間にあるという地の利もある。それに加え、スノーモンキーという欧米を中心に多少の知名度があるコンテンツもある。それで私たちは、長野とシンガポールを拠点に、マーケティングや地域の受け入れ体制の整備を行うDMC(デスティネーションマネジメントカンパニー=観光地のマネジメント事業を行う法人)として、長野を国際的な観光地にしていくための会社を立ち上げました。
マーケティングの観点から見ると、当時の長野は競争力、つまり潜在的価値のあるエリアなのに、それらが顕在化していない場所でした。そこで、まずはスノーモンキーを中心に、山ノ内だけでなく、北信エリアを「SNOW MONKEY RESORTS」と捉えてブランド化することを目指しました。スノーモンキーは当時からそれなりの知名度はありましたが、地獄谷野猿公苑の外国人来訪者数は2012年で2万人、2017年は10万人なので今とはまったく違う状況でした。
SNOW MONKEY RESORTSは、今後、さらに広域にしていきますが、現在は善光寺や戸隠のある長野市や志賀高原を含めた北信エリアを指しています。私たちが海外旅行に行く時もそうですけれど、県とか市町村の区切りというのは気にしませんよね。外国人観光客はなんらかのコンテンツを目指して長野県に来ているんです。結果的に長野県には来ているけれど、長野県を目指して来ているのではないと言ってもいいでしょう。スノーモンキーを見に来た観光客が、何泊かして周辺エリアにも訪れてほしい。SNOW MONKEY RESORTSにはそういうビジョンが込められています。極端な話、スノーモンキーだけなら東京から日帰りもありになってしまう。実際、今でもそういう方は多いんです。でも、周辺にこんなにいろいろなスポットがあるということが認知されたら、何泊かしようかということになるでしょう。そう思ってくれたらしめたものです。日帰りだと地域にあまりお金は落ちませんから。
私たちはそういうツアー企画を海外の旅行会社にも売り込んでいます。海外の旅行会社にスノーモンキーという魅力的なコンテンツがある、近隣にもいろいろな場所があるということを知ってもらい、私たちが造成するツアーを販売してもらうことで、海外からの旅行客を長野に呼び込んできました。
マーケティングと同様、もう一つ大事なのがこちら側の受け入れ体制を整えることです。地獄谷野猿公苑までは30分ほど山道を歩くのですが、以前は荷物預かり所がなかったので、大きな荷物を背負ったまま歩いている人が多かったんです。防寒具やブーツの貸し出しもないし、落ち着いて待っていられる場所もない。今では考えられない状態ですよね。旅館に泊まればブーツも貸してくれるし、遊歩道の入り口までの送迎もある。荷物も旅館にチェックインしているので持ち歩かなくてもよい。山ノ内の観光業の主たるプレイヤーは旅館やホテルなので、日帰り客に対しては対応がないがしろになっていた側面があると思います。
それで、まずは猿座(えんざ)カフェ、翌年にはインフォメーションセンターを立ち上げて、そういったニーズにすべて対応できるようにしたんです。徐々に海外からの宿泊客が増えてくると、今度は夜の外食ニーズが強まってきました。基本的に外国人観光客は旅館に泊まっても外食したがります。そこで、夜も対応できる街なかの食事スポットであるJapanese Dining GOENを湯田中駅前に作りました。今までなかったニーズが出てくれば、新しいサービスが必要になるということです。
実はまちノベイトの立ち上げ直後に野猿公苑の駐車場にフードカーを置かせてもらって、コーヒーや軽食を売っていたんです。その中で観光客のニーズとか困りごとを目の当たりにしていたので、それらのニーズに対応できる施設として猿座カフェを作りました。私は今でも自施設やツアーの送迎バス運転手をやっていますが、観光客との接点を持ち続けていたいと思っているからなんです。もちろん弊社の人手不足という面もありますけど(笑)。やっぱりニーズというものは年々変わっていくんです。そのニーズをくみ取り、それをコンテンツに反映するという方法論です。私は現在のビジネス展開を最初から目指していたわけではありません。お客さんの求めているものに一つひとつ対応していった結果が、現在の姿なんです。
まちノベイトは飲食店さんですよねとよく言われますが、たまたま今ある場所に飲食店が必要とされていたから展開しただけなんです。自治体や観光協会等による町おこしのプランを見ていると、自分たちの町をこうしたい、こういうものがあるから利用したいという発想でスタートしているものが多いように見受けられます。潜在的なお客様のニーズにマッチしているかも検証せず、供給サイドの都合だけで考えている。こういう方法論がNGなのは通常のビジネスであれば当たり前なんですが、このような町おこしって多いですよね。この地方の産業をインバウンドを通じて高めていこうかという時にそのような進め方でいいのか、とてももったいない予算の使い方をしているように感じます。
2018年春以降にグランドオープンするのがこの「穂垂亭(Hotaru-Tei)」です。主な用途は私たちが造成しているツアーで来た観光客が食事をする場所なんですが、それに加え、日本の食文化「和食」を海外に向けて発信、ブランドにすることを目指すという大きな目標があるんです。欧米だけでなく東南アジアにも日本食レストランが急増しており、和食に触れる機会が増えています。シンガポールも数年前までは和食の麺類といえばラーメンが中心でしたが、次第にうどんや、最近ではそばの認知度も上がってきています。
穂垂亭は、観光のインバウンドから食のアウトバウンド(海外進出)につなげていく場と言えばいいでしょうか。まずは観光客に来てもらう。インバウンドで認知度を上げつつ、その地方から生み出される食コンテンツを海外に売り出す。これが、インバウンドを通じた地方の産業展開の理想的なあり方だと思っています。国際観光地を目指すDMC(デスティネーションマネジメントカンパニー)の存在意義は、地域にある潜在的な価値を、インバウンド消費につながる貨幣価値に変えていけるか、地域価値を産業としてイノベーションしていけるか、ということに尽きます。これは公益性の追求ということにもつながりますが、前職の産業金融を担う興銀もインフラファンドも、私の中では公益性とともに成長するビジネスという点では、今と同じことをしているという意識があるんです。私はそこにモチベーションを感じるタイプなんでしょうね。地域とともに自分たちのビジネスも成長していきたい。これが私の思いです。
訪日観光客受入支援、海外マーケティング支援、ツアー販売事業などまちノベイト社の様々な取り組みをご紹介いたします。
Point 1
猿座カフェ(ENZA CAFE)東南アジアはイスラム教徒が多いエリア。ノーポークレストラン(豚不使用の飲食店)である当店はムスリム旅行者にも安心。
Point 2
Japanese Dining GOEN湯田中駅前の雰囲気を一変させたテラス完備の瀟洒なダイニング。地元の方にも親しまれています。
Point 3
穂垂亭(Hotaru-Tei)2018年春以降オープン予定の古民家レストラン。和食文化の魅力を世界に向けて発信するまちノベイトの新機軸を担います。
Point 4
海外マーケティングイベント海外現地の旅行博や旅行会社との商談会などでもマーケティングを実施。観光地の認知度向上の機会の一つになっています。
Point 5
SNOW MONKEY RESORTSの海外発信急増するFIT(外国人個人旅行者)をターゲットに外国語ウェブサイトやパンフレットで情報発信。長野旅行のきっかけになった人も多いとか。
Point 6
ツアー企画「長野は日本の自然文化体験の宝庫なんです。」と笠原さんは語ります。現地のニーズに即したツアーは大盛況。
Point 7
日本食のアウトバウンド「食コンテンツの海外展開(アウトバウンド)は、観光インバウンドを通じた産業展開の理想的なあり方ではないでしょうか」