江戸時代、四方を山に囲まれた木曽は、稲作ができませんでした。しかし良質な木材に恵まれ、流通させることで、米が集まりました。慶安3年(1650年)、二代目湯川九郎右衛門がその米を利用して酒造業をはじめたのが湯川酒造店のはじまりです。創業から360年以上たった現在、木曽地域の自然・文化・歴史の強みを活かすことはもちろん社内の仕組みや酒造りの手法を見直し湯川酒造店のファンを増やしつづけているのが代表の湯川尚子さんです。結果、湯川酒造店の主力銘柄の「木曽路」はANA国際線ファースト・ビジネス両クラスで大吟醸が提供されるほどの実力派となりました。また、「十六代九郎右衛門」は、全国の日本酒ファンに定評がある、大変人気のお酒です。こういった成果に至るまでには様々な紆余曲折があったと尚子さんは話します。
3姉妹の長女として生まれた尚子さんは、幼いころより周囲から跡取りとして嘱望されていました。そのため、高校の先生に薦められて東京農大の醸造学科で学びましたが、子どもの頃からなりたかった薬剤師への憧れを忘れられず、卒業後は製薬会社へ。もともといつかは実家で酒造りに携わることを考えていましたが、3年後の25歳のときに、杜氏見習いとして蔵入りすることを条件に帰ります。
代々、小谷村から杜氏がきて醸造をしていた湯川酒造店。そのため、酒造りについてはよく知らない部分もありました。製薬会社の営業経験から、今の世の中、商品を知らなければ物は売れないと思い、製造現場から経験したいと考えました。入蔵すると、蔵元と杜氏、つまりは「売る側」と「造る側」がひとつのチームではないことに違和感を感じました。社長は販売に徹して酒造りに口をはさめず、任せているようで、最終的に一歩引いているように見えたのです。尚子さんの改革の始まりです。
杜氏は大ベテランですでに卓越した醸造技術を持っていました。集大成として確立しているためか、尚子さんがなぜそのやり方でやるのか質問しても数値や理論で返ってきませんでした。約束していた時間に麹の手入れに来なかったので次の日尋ねると、「麹に呼ばれなかったから行かなかった」と返って来たときには笑うしかありませんでした。何も知らないのだから、3年はだまって教われと、いろいろな人に言われていたそうですが、杜氏は積み上げた酒造り人生の最終段階、自分は酒造りについて現代に沿った新しいやり方を模索している段階であり、そのギャップを目の前にして焦りもあったそうです。「でも、最終的には父も杜氏も、お前がこの先やっていくのだから、好きにやれと許容し、見守ってくれていたように思います」と、当時を振り返ります。
尚子さんは不良在庫をなくし酒の質を上げることを目指しました。
「59というナンバーのタンクがあるのですが、工場の一番隅にある、いかにも管理しにくいタンクで、そこに売れ残って熟成が進んだ美味しくない酒が入っていたのでしばらくトラウマでした。59のタンクに入れると酒が美味しくなくなってしまうのでははないか思って」と、話します。まず、米を洗う、蒸す、もろみづくり、麹づくり、しぼるまでの全行程を改善し、方法論として確立させました。そうして造った美味しい酒も、貯蔵次第で味が180度変わってしまいます。今まで杜氏は季節雇用だったため、酒ができると地元に帰ってしまいました。そのため夏場の酒の管理が特に難しかったそう。自分たちでしっかり管理し、しぼった後の酒の品質をどう高めていくか、設備投資をし、方法論も変えました。
新しいやり方に賛同できなかった社員数名が会社を去り、試行錯誤を続ける中で、会社が「まとまった」と感じたのは入蔵から6年、皮肉にも社長の座を引き継いで13日後に先代が亡くなった時だったと話します。それまでは社長になってからも社員に「なおちゃん」と名前で呼ばれていた尚子さん。お葬式を取り仕切る際、動揺を隠せずにいると、社員から「社長が指示を出さないと何も動かないんだよ」と、声をかけられたそうです。「社長」と呼んでもらうことで襟を正されました。社員とは意見がぶつかることもあり、はじめは認められていないと感じるときもあったけれど、それでも社員を大切にすることで会社を良くしたいと思っていたので、それが少しずつ伝わったのかなと、はにかんだ笑みがこぼれます。同年に結婚し、夫になった慎一杜氏にも支えてもらったそうです。2013年に甘酒製造室が火災になったときも、多くの人に助けてもらいましたが、夫がいなかったら乗り越えられなかったと言います。
幸い日本酒製造室の被害は少なく、お世話になった地域に恩返しするためこれまで以上に飛躍しようと、25tのクレーン車で10,000Lのタンクや薮田式圧搾機を釣り上げ、3階建ての社屋をまたいで大移動、一から設備を整えました。
木曽には地域の大変有名な地酒があるため、父である先代が販路を首都圏に見いだし、地元ブランドの「木曽路」とは別に「十五代九郎右衛門」という銘柄を立ち上げていました。尚子さんは社長になったと同時に銘柄名も成長させた「十六代九郎右衛門」に「造り手の感性とともに、記憶に残る酒を」とキャッチコピーをつけ、自分たちのやりたいことを表現していくブランドとしてのコンセプトを確立しました。「十六代九郎右衛門」は湯川酒造店の先鋒隊です。時代に合わせ、しっかりとした味ながらキレのある、メリハリのある飲み口にしたのです。販路は首都圏や関西、県内主要都市などの特約酒販店50店舗のみ。地酒ブームの中で「十六代九郎右衛門」が美味しいと首都圏で評判になれば、良い宣伝になります。売上は上々で、「木曽路」に比べてまだ歴史が浅いのに全体の25%になりました。
代々受け継がれた「木曽路」は、名前の酒が持つ地域性を大切に、歴史や文化を積み上げていくブランドとして位置づけました。木曽山中の厳しい生活に耐えられるよう、味付けの濃い食文化に合わせて濃厚甘口、どっしりとした骨太の酒は、木曽という地域を表現しています。キャッチコピーは「木曽路の時代(とき)とともに、今までも、これからも」。「木曽路」を通して木曽地域への貢献をと考え、木曽川源流である、味噌川のダム地下トンネルを利用した木曽川源流ダム貯蔵酒もつくりました。販路は木曽周辺の酒販店、コンビニなどどこでも購入ができます。
2銘柄のコンセプトを明確にし、販路も変えることでそれぞれのブランドの存在意義が見えてきました。最近、首都圏で「十六代九郎右衛門」を飲んだ日本酒ファンの方に「地元ブランドは何?」と聞かれることもあるそう。
「十六代九郎右衛門」から木曽路に、木曽路から木曽に繋がれば嬉しいと、夢は広がります。
酒蔵のWebサイトを開設し、写真を用いて湯川さん本人の言葉で想いを綴ったところ、主力銘柄である「木曽路」によって木曽や木祖村を知ってほしいという願いが伝わり、地元のお客様にもより一層愛着をもってもらえるようになったそうです。2017年には、木祖村の木桶を使って生酛仕込を行いたくてクラウドファンディングを募集したところ、すぐにたくさんの反応がありました。以前は取引先の相手の顔が分かり、1枚1枚はがきを書いて丁寧にお付き合していたはずが、規模が大きくなるにつれ、誰が自分たちを見てくれているのか分からず不安になった時もありました。今回クラウドファンディングを経験したことで、自分たちが知らないところでも応援してくださっている方々の存在を知り、自信につながったと話します。
木曽の自然、人、歴史の魅力を最大限に活かした湯川酒造店の魅力をご紹介いたいます。
Point 1
標高936メートルの酒蔵極寒の12月~2月頃にはマイナス18℃になることも!酒造りに最適とはいえない木祖村でこそ培われてきた寒さに強い酒造技術により、たくましくも優しさあふれる酒が醸し出されています。
Point 2
1650年創業江戸時代初期、徳川家光が統治していた慶安3年(1650年)創業。長野県で2番目に歴史が古い酒蔵。
Point 3
良質な酒米を使用良質な木材を流通させ、米が収穫できない地域なのに酒米を入手!現在も県内外で契約栽培している良質な酒米を使用しています。
Point 4
仕込み水は、北アルプス南端仕込み水は、北アルプス南端、木祖村最高峰の鉢盛山(2,447m)から湧き出る木曽源流の豊富な井戸水。
Point 5
おしどり夫婦数々の苦難を乗り越えて酒造りをやり遂げる、たくましさを兼ね備えたおしどり夫婦。
Point 6
地元で愛される普通酒「木曽路」地域のみんなで酒盛りをするときは湯煎せず、気にせず直接やかんにドバドバ入れて火にかけお燗するそう。肩肘張らない楽しい宴です。
Point 7
社員がいちばん身近なお客様社員が幸せでいい仕事をすれば、その先にいるお客様も地域も幸せに。いちばん大切にしているのは社員です。