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千曲川のほとり(その1) 明治時代の河川改修(中野市上今井地籍のショートカット)

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▲普段は矢印の辺りに水が流れています。

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▲平成18年7月18日の増水時の様子です。

農地整備課のMM3010です。

私の住む千曲川のほとりは、北に北信五岳、東に志賀高原、南に菅平を望み、浅川が千曲川に合流するあたりにあります。また、この地点では戸隠方面から流下する鳥居川も合流しています。農地として肥沃な広い河川敷(高水敷部分)ですが、これらの農地は水害常襲地帯でもあります。年間降水量が1,000mm弱にもかかわらず、落合橋で犀川と合流した千曲川は、中野市立ヶ花地籍で川幅が急にが狭くなり、このため洪水時には水位が上昇するのです。

現在様々な治水対策が行なわれていますが、先人達もこの苦難に立ち向かってきたのです。時代をさかのぼって、私の住む「千曲川のほとり」にまつわる話を3回に分けて紹介します。今回はその1回目です。

 冒頭の写真上は、平常時の河川敷畑地帯です。千曲川の水面は遥か彼方、矢印のあたりです。その下の写真は平成18年の洪水時です。一面泥水の海となり作物は完全に水没します。それでも農家がここで耕作するのは肥沃な土地であるからです。堤防の内側の畑と比べ雑草の成長速度が全く違うことからもわかります。

弘化4年(1847年)の善光寺地震により長野市信更町の岩倉山が崩壊、犀川に堰きとめ湖ができ、その後決壊したため、大量の土砂が立ヶ花の急に狭くなった部分に堆積し、その上流の水害は一層ひどくなったといわれています。明治2年(1869年)安源寺村(現在の中野市)の丸山要左衛門は、上今井地籍の蛇行した流路を直線化(ショートカット)(詳しくはこちら→リンク)して、水害を減らそうと嘆願書を民部省に提出しました。このショートカットは、耕地を失ったうえ、村が分断され千曲川を渡らなければ農地に行けなくなるなどで、上今井村からは強い抵抗がありましたが、要左衛門の熱心な説得により、この68か村に及ぶ壮大な計画は、延べ235,800人と工費49,711円余(一説に61,900円)を費やし明治5年に竣工したといわれています。当時の物価と今の物価を比べると3,000~4, 000倍といわれますので、今でいえば1億円とか2億円なるのでしょうか。

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6月のある日、ショートカットにより残された旧河川敷に行ってみました。左の写真は旧河川敷を北から南に向かって高台から眺めたものです。弓なりにカーブを描いているのがわかります。右の写真は旧河川敷に降りて写したものです。茶色く見えたものは全て麦でした。一面の麦畑は壮観でした。 (次号につづく)

  

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