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諏訪の学び~「岩波・筑摩・みすず」を結ぶ点と線

モーニング娘。は初期のヒット曲「Memory 青春の光」で、〈別れるのがつらい事 あなた愛して 学んだわ〉と歌っています。ようやく、取り替え不可能な相手と出会えたんですね。何事からも何かを学ぶことはできます。

先日、長野県の次期総合5か年計画について、審議会から答申がありました。基本目標に「学びと自治の力で拓く新時代」とあります。「学び」しかも「主体的で創造的な学び」が必要だと言います。これからは誰も経験したことのないような時代がやってきます。従来の成功体験(高度成長時代の枠組み)にしがみつかず、大胆に変化していく必要があります。でも、じゃあどうすればよいのかというのは誰にもわからないので、それぞれが手探りで学んでいかなければならないのです。

学び方は人それぞれです。あらゆるものが学びのテクストになります。そこから何かを抽きだすには「主体的」に対象と向き合わねばなりませんし、従来にない読み取りをする「創造」性も必要です。

いやぁ、言うのは簡単だけど、チョー難しいですね。

「学び」というと、信州は「教育県」であることが思い出されます。他県の人から「へぇ~、そうなのか」とからかわれ赤面したことがある人もいると思います。あまり知られたくない側面ですが、なぜ教育県と言われたのか今となっては「謎」です。たぶん、江戸時代に寺子屋の数が一番多かったとか、明治になると小学校の就学率が全国で一番だったとか、初等教育が充実していることが長野県が教育県といわれたゆえんでしょう。でも近年は、現役による4年制大学の進学率が全国で最下位に近い水準にまでなったことがあり(平成元年は45位)、県議会を巻き込んで学力論議が起こったほどです。どこが教育県だ!というわけです。

教育というのは知識を大衆に広めるものです。学校教育が典型ですが、もう一つ、出版活動も書物の頒布によって知識を普及させます。出版というのは社会的に非常に意義のある活動です。そして、長野県出身者の出版事業への貢献には小さくないものがあるのです。




 

(ここからが本論です。)

岩波書店、筑摩書房、みすず書房は、いわゆるマジメな本を出している出版社です。筑摩、みすずは長野県にゆかりのある社名です。驚くのは、この3社の創業者の出身地が、直線で約20kmの距離に収まるほど近いところにあることです。

日本

 創業者と出身地

・岩波茂雄(岩波書店) 諏訪市中洲中金子

・古田晁(筑摩書房) 塩尻市北小野

・小尾俊人(みすず書房) 茅野市豊平上古田

拡大するとこうなります。↓

SPLn

この3人の生家は地図上、ほぼ直線に並んでいます。小尾俊人の生家から諏訪大社上社近くにある岩波茂雄の生家までが7km、そこから山を越えて古田晁の生家まで14kmです。諏訪と茅野は同じ文化圏ですし、塩尻市小野は辰野を経由して県道50号線で諏訪と、県道254号線で岡谷と結ばれています。また、小野には小野神社があり、祭神は建御名方命。出雲から逃げてきた建御名方命が諏訪に入ろうとしたところ洩矢神がいたので、しばらくこの地にとどまったという言い伝えがあります。小野は古くから諏訪とも関わりが深い土地なのです。

私は、諏訪湖の南端を通るこの約20kmの直線を、SPL(スワ・パブリッシャーズ・ライン)と名付けることにしました。今後、長野のトリビア本を出すときに、是非紹介してやってくださいw。

3人の中で、一番早く出版社を興し、成功を収めたのは岩波茂雄です。大正2年に古本屋を始め、翌年に出版事業を手がけ、新興ながら夏目漱石の『こころ』を出し信頼を得ました。昭和2年に創刊した岩波文庫が大当たりします。古田晁が筑摩書房を興したのは戦時体制下の昭和15年。出版業をはじめるにあたり岩波茂雄に相談に行っています。小尾俊人が仲間とみすず書房を始めたのは戦争から復員した昭和21年。戦後の出版社乱立の中の一社でした。小尾は当初、岩波書店に入りたいと思い上京しました。近隣の郷土の先輩である岩波茂雄が出版で成功したことが、他の二人のロールモデルになったといえそうです。

では順に、生地(聖地)巡礼していきましょう。




【岩波茂雄(岩波書店)】

岩波書店というと、教養主義的で硬派な出版社として有名です。権威になりすぎてしまい岩波アレルギーがある人もいるくらいです。岩波文庫や岩波新書という廉価本のシリーズがありますので、学生時代に1冊位は読んだことがある人が多いと思います。

実は、岩波書店の本は小さな本屋ではあまり置いてありません。それは岩波の本は買い切り制だから、売れ残っても返品できないのです。小売りする書店としては、売れる確信がなければこわくて仕入れられません。殆どの出版社の書籍は委託販売ですから、本屋は店頭に並べて売れなければどんどん返品します。書籍の返品率はこの20年ほど4割若を推移しています。良書を置くのが本屋の使命だという気概のある本屋さんは岩波の本をズラッと並べています。

岩波書店の創業者岩波茂雄は、1881年(明治14年)、諏訪市中洲村中金子にある農家に生まれました。生家跡地は小泉寺の前にあり、現在は児童公園の一部になっています。立派な石碑が立っています。

岩波「岩波茂雄先生生誕之地」の碑

茂雄は諏訪中学(以下、全て旧制の学制です)を出ましたが、田舎で埋もれたくないと思い、周囲の反対を尻目に上京し、日本中学に編入学。その後、一高に進みましたが、当時は一高生の藤村操が日光の華厳の滝で自殺して岩波も影響を受け、哲学的な煩悶の時期が続き、結局、退学してしまいます。(付記1参照)父は15歳の時に亡くなっていたので、故郷には母が残されていました。エリートコースを進んではいましたが順調というわけではなく、母に心配をかけていることを常に案じていました。

一高を退学した岩波は、翌年、東京帝国大学哲学科選科に入りました。退学していたので本科に入る資格がありませんでした。母は大学卒業目前に亡くなります。岩波は親類の反対を押し切って故郷の田畑を売却してしまいます。

大学卒業後、神田の女学校で教員を4年やってから、大正2年に古本屋を始めます。本屋をやったのは文化に貢献しようとかいう事ではなく、たんに市井で商売をやりたかったからでした。古本正価販売をおこないバッシングを受けます。古本正価販売というのは、そのころ古本に値段はついていても、客が交渉して割引させていたのが一般的だったのですが、岩波はそれに応じなかったのです。やがて岩波のやり方が主流になっていきます。

古本屋を始めた翌年に出版事業を手がけました。夏目漱石の『こころ』を出版し、新興の書店が有名な作家の本を出すので信用が上がりました。その後哲学書や自然科学の本を出す硬い出版社として知られていきます。なんといっても昭和2年に創刊した岩波文庫の成功が出版社としての足元を盤石にしました。当時は円本ブームで、改造社が一冊一円の『現代日本文学全集』を出し爆発的に売れていたので、それに対抗したのです。(付記2参照)

岩波茂雄は人の面倒をよくみ、また強情なほど正義が強く実直だったようです。郷里への寄付も惜しみませんでした。晩年には高額納税者から選ばれる貴族院議員になります。終戦の翌年、65歳で亡くなります。岩波茂雄は伝記も何冊か出ており、偉人の扱いです。

諏訪はこのような偉大な出版人が出た土地ですが、本を売る書店は寂しいものがあります。この地域では、岡谷の笠原書店が頑張っています。本好きは新刊棚にまず行きますが、笠原書店の新刊棚は小出版社のものも置いてあり、楽しいものになっています。

岩波書店の本は、生家跡から600mほど離れたところにある信州風樹文庫に揃っています。(諏訪市立図書館のひとつで、中洲小学校近くにあります。気軽に入館できます)。ここには岩波書店が発行している本が全て(戦前の本が一部欠けている)所蔵されています。風樹文庫ができたきっかけは、中洲の青年たちが、戦争から復員して読む本が欲しいと岩波書店に出向き掛け合ったことにはじまります。岩波茂雄は前年に亡くなっており「故郷だからといって本が欲しいというのはセンチメンタリズムだ」と断られて一旦は引き下がったのですが、翌日、息子の岩波雄二郎に会って承諾をもらったのです。その後、岩波書店からは現在も新刊が届けられています。

風樹 風樹文庫の岩波文庫の棚

 

【古田晁(筑摩書房)】

筑摩書房の創立者は古田晁(あきら)です。1906年(明治39年)に東筑摩郡筑摩地村(現、塩尻市北小野)に生まれました。旧家でしたが、父は放蕩家で財産を蕩尽し、晁が生まれた年に単身アメリカに渡っています。アメリカで苦労の末始めた会社が成功し、財をなします。

古田は松本中学、松本高校と進み、昭和2年に東京帝大文学部倫理学科に入学します。松本中学で、生涯の友人となる臼井吉見と出会いました。安曇野出身の臼井の印象が強いので古田も安曇野出身かと勘違いしてしまいますが、そうではありません。

古田は高校生の頃、岩波書店はすごいと憧れを語っています。大学を卒業したら出版事業を始めようと思っていましたが、父の貿易事業を手伝うため渡米しました。8年後に帰国。出版社をはじめたい古田は岩波茂雄を訪ねて意見を聞きますが、大変だからやめたほうがよいと諭されます。いろいろ迷ったものの、出版社を興すことにしました。父が資金として大金を用意してくれました。

昭和15年に筑摩書房を創業。社名は島崎藤村の「千曲川旅情の歌」にあやかって千曲書房にするところでしたが、「せんきょく」と間違って読まれそうだから筑摩書房に変更。筑摩は古田の生まれ故郷の村の名前でもあります。松本近辺ですと筑摩は「つかま」と読み、松本中学・高校に通った古田や臼井は「つかま」に馴染んでもいるのですが、一般的な読み方ではないため、筑摩書房は「ちくましょぼう」と読むことにしました。70年代後半以降のシリーズものには、「ちくまライブラリー」「ちくま文庫」「ちくま新書」とひらがなを使っています。

古田は「もうからなくていい。いい本を出せばいい」という考えだったので、苦しい経営が続きます。その古田は昭和48年に死去。筑摩書房は昭和53年に業績不振で倒産します。しかし全国の書店に助けられて復活。これも「いい本」を出してきた所以でしょう。85年創刊のちくま文庫、92年創刊のちくま学芸文庫には、岩波流の古典重視とも違った魅力的な本がならんでいます。

古田の生家は塩尻市に寄付され、現在、古田晁記念館となっています。渡り廊下のついた珍しい土蔵が展示室です。開館は土日祝日のみ。入館料は無料です。

古田 古田晁記念館の門

 

せっかくなので筑摩書房の本で一冊お勧めするとすれば『十牛図』(上田閑照、ちくま学芸文庫、1992年)でしょうか。「十牛図」は禅のテクストで、悟りに至る過程を10コマのマンガで表現したものだと思ってください。掛け軸なんかで見たことがあるかもしれません。本書は、いわばマンガを解説した本ですが、これがめちゃくちゃ面白いんです。

 

【小尾俊人(みすず書房)】

みすず書房の本の特徴は、装丁が白っぽいこと、小難しい内容ばかりであること(いわゆる「白難解」)、定価が高いことといったことです。装丁がどれも白っぽいのは装丁にお金をかけないため、小難しいというと、私らの世代だとレヴィ=ストロースやロラン・バルトといったフランス現代思想の本を出しているイメージがあります。

定価が高いため私が持っているみすずの本は半数は古本です。古本でも2-3,000円しますので、学生にはとても新刊は買えない。最近だと『ライフ・プロジェクト』というコホート研究(同じ年に生まれた人たちがどういう人生をたどっているか定期的に追跡調査するもの。テレビ朝日の人気番組『あいつ今何してる?』を大規模かつ学問的にやっていると思えばよい)の本が面白そうなので手に取りましたが、本文が300頁ほどで定価が税込みで5,000円ほどします。翻訳本ですが、他の出版社なら半額の2,500円くらいで出すところです。高くても3,500円とか。そのくらいなら買いますが、5,000円は庶民の財布を開かせるには高すぎます。他の出版社は、売れる本で稼ぐので売れない良書を低く抑えることができるのでしょう。でも、みすずは売れない本がほとんどだから高くなるのかもしれません。

みすず書房の創業者、小尾俊人は1922年(大正11年)諏訪郡豊平村上古田(かみふった)(現、茅野市豊平)に生まれました。父の小尾栄は南信日日新聞の記者をやっており、左牛と号した歌人でもありました。

生家の場所 ↓

小尾

石碑 生家跡地にある小尾栄の歌碑

「生をうけし此處ぞ山河はうましもよ とはに幸あらむ人みなわれも 左牛」と刻まれています。

生家の前には小泉山という小ぶりな山があります。幼い小尾俊人が毎日見上げていた山です。でいだらぼっちが八ヶ岳を削って諏訪湖を埋めようと天秤棒でかついだ土を落としたのが小泉山になったという伝説があります。ここでちょっと驚くのは、岩波茂雄の生家(諏訪市中金子)のすぐ裏に小泉寺(しょうせんじ)という古いお寺があるのですが、片や小泉山、片や小泉寺、似ているなと思ったら、なんと小泉寺はもともと茅野市の小泉山のふもとにあり、戦国時代、織田信長軍の兵火により焼失し、諏訪に移転したというのです。小尾俊人と岩波茂雄には古いつながりがあったのです。

小泉山小泉山

昭和7年、俊人が10歳のとき、仕事の都合で一家は上古田から上諏訪町中町に移ります。父はその後すぐ独立して月刊誌「信州文壇」を創刊。昭和13年、俊人が16歳のときに上諏訪町大手に転居しました。この場所は上諏訪駅前の踏切を渡ってすぐのところで、今のシティホテル成田屋の向かいです。俊人自身は15年に上京するのでそこには2年しか暮らしていません。

俊人は尋常高等小学校を出て、岡谷にある県立蚕糸学校(在学中に岡谷工業学校と改称)に入学しました。蚕糸学校というのは中学校と同じく中等学校のひとつで、実業学校です。当時、義務教育である尋常小学校から中等学校への進学率は東京以外では1割ほどでした。昭和15年、実業学校を卒業し18歳で上京。父の発行する月刊誌「信州文壇」(昭和7年~17年)が売れなかったので、小尾は、いい雑誌を作っても田舎では駄目だ、東京にでようと思ったようです。岩波書店に入社したかったのですが、岩波茂雄から羽田書店を紹介され、そちらに入社することになりました。夜学に通いながら勤務しました。

羽田書店というのは、元首相である羽田孜(つとむ)の父、羽田武嗣郎が昭和12年に始めた出版社です。羽田武嗣郎は朝日新聞記者を経て昭和12年に衆議院議員に当選。その後すぐ、尊敬する岩波茂雄を顧問に開業した出版社です。武嗣郎は小県郡和田村の生まれで、これも諏訪に近いですね。

俊人は、羽田書店に3年いて、20歳のとき明治学院英文科に入学しますが、21歳で学徒出陣。内地の部隊を転属しました。敗戦時は23歳。復員後まもなく出版社設立準備に取り掛かります。昭和21年に事務所を開設し出版を開始。戦後乱立した出版社のひとつでした。

小尾には、旧制高校から東大を出た岩波や古田のような著作者との人的つながりなかったので、細いつてを頼りに書き手を探していきました。資金は羽田書店の社員2人が助けてくれました。

社名は当初、漢字の「美篶書房」でしたが、時代錯誤であるとして、ひらがなの「みすず書房」に改めました。「みすず」というのは、信州の枕詞である「みすずかる」から来ています。長野県には「みすず」と名の付くものは多いのですが、それを案じるような記事がネットにありました。以下抄録します。書き手は小学館国語辞典編集部の神永暁という人です。

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「みすずかる」の「み」は接頭語、「すず」は篠竹(すずたけ)で、その「スズタケを刈る」という意味なのだが、漢字で書くと「御篶刈」となる。スズタケは日本特産の主に山地の森林の下草として生える竹である。

「みすずかる」は、もともとは『万葉集』に出てくる語なのだが、隣接する短歌二首(巻二・九六、九七)にしか見られない。いずれも、「水(三)薦刈る 信濃(しなの)の真弓(まゆみ)」の形であるため、信濃にかかる枕詞(まくらことば)だと考えられている。「真弓」は弓の美称である。

ところで、注意深い方ならすでにお気づきかもしれないが、「みすずかる」の漢字表記は「み篶刈」だが、『万葉集』の漢字表記は「み薦刈」で、「篶」と「薦」が異なるのである。

「薦」は「篶」とは読みも意味も全く異なる漢字で、「こも」と読みマコモの古名である。マコモは水辺の生えるイネ科の多年草で、編んでむしろを作る。酒だるの「薦被り」の「こも」だというとおわかりいただけるかもしれない。

「みすずかる」という語は、江戸中期の国学者賀茂真淵(かものまぶち)が『万葉集』にある「み薦刈」を「み篶刈」の誤字であるとし、それを「みすずかる」と読んだことで広まった。(略)

「みすず飴」が作られたのは「みすず飴本舗飯島商店」のホームページによると明治末年からのようだが、その時代は「みすずかる信濃」という言い方がふつうだったのである。

ところが、昭和に入って国文学者の武田祐吉(たけだゆうきち)が『万葉集全註釈』の中で誤字説を採らず「み薦刈る」のままとし、しかも「みこもかる」と読むべきであると主張したため、現在では、この武田説が主流になっている。

「みすずかる」は以上のような経緯で生まれた語で、万葉学的には葬り去られた語かもしれないが、辞書的には挙例のような一茶などの用例もあり、立派に存在していることばなのである。」

「日本語、どうでしょう?」http://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=302

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なるほど。でも「みすず」は女性名にもよく用いられていますし、いまさら「みすず」が誤りだなんていわれたらアイデンティティが揺らいでしまいますね。いまさらと言っても『万葉集全註釈』は戦後しばらくして出版されているからだいぶ前ですけど。少なくとも小尾は知らなかったのだと思います。「みこも書房」だったら、速水もこみちみたいで、ちょっとどうかな。

小尾は、1990年にはみすず書房から完全に身を引き、2011年に89歳で没しています。




 

〔付記1〕藤村操の死と「巌頭之感」

このところ連日のように、座間9人殺しが報じられています。被害にあわれた方は自殺願望があって、そこにつけこまれたようです。日本の15歳から34歳の青年の死亡原因の1位は自殺です。他国では事故が1位なので、この点、日本は異常です。岩波のところで、藤村操が自殺した話を書きました。ここで藤村についてもう少し述べておきます。

藤村操が自殺したのは明治36年。日露戦争の前年です。数えで18歳、満年齢で16歳10か月という若さ。藤村の後を追って華厳の滝から飛び降りた人が何十人もいました。未遂も100人を超えたようです。このため華厳の滝は自殺の名所となってしまいました。

自殺というのは感染します。岡田有希子やX JAPANのhideのような大なり小なり崇拝されている人が自殺すると、あとに続く人が必ず何人かでてきます。藤村の場合、一高生とはいえ無名でした。メディアスターでもない一学生の死が、なぜ群発自殺を生じさせたのか。

ベースには、明治という立身出世主義の時代があります。藤村の後を追った彼らは煩悶青年と呼ばれました。岩波のみならず、当時のエリート青年は、人生とはなんぞやということに真剣に悩んでいました。固定的な身分への縛りがなくなった明治時代は、勉学に励むことにより社会的な上昇が可能でした。自分の栄誉のためだけでなく、郷里の朋党からの期待も大きいものがあります。そのため挫折への恐怖が常につきまとっていました。勉学一筋の道における躓き、疑問や逃走が彼らを煩悶させたのではないでしょうか。

そうした時代を背景にしつつ、藤村には注目される大きな理由がありました。藤村は飛び降りるまえに、近くの樹の皮をはいで、次のような文章「巌頭(がんとう)之感」を幹に刻んだのです。

悠々たる哉(かな)天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此(この)大をはからむとす。ホレーショの哲学竟(つい)に何等のオーソリチィーを価(あたい)するものぞ。万有の真相は唯(た)だ一言にして悉(つく)す、曰く、「不可解」。我この恨(うらみ)を懐(いだ)いて煩悶、終(つい)に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等(なんら)の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

この「巌頭之感」は、刻まれた樹の幹が写真に撮られて絵葉書として売られ、雑誌にも載りました。メディアが一役買っていたのですね。

これまで「巌頭之感」について論じられる場合、これが樹に刻まれたもので明瞭でない部分があるため、そもそもなんと書かれているのか解釈が分かれること、また、ホレーショの哲学とは何なのか、藤村は哲学的自殺と言われたが失恋による自殺ではないか、といったことが語られてきました。

私が取り上げたいのは文の終盤です。これは自殺願望を抱く人にとって危険な文章であると思います。「既に巌頭に立つに及んで」というのは、今まさに死のうとしているところを実況中継しているような臨場感があります。これは、その気のある人に類似の行動を誘発させます。「胸中何等の不安あるなし」とか、「始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを」という論理の跳躍は神秘的で、死ぬ人に勇気を与えます。総じて、死のうとする人の迷いを払拭し、気分を高揚させ、その背中を押すものです。

前半のほうには、「万有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」」という文があります。「万有の真相は唯だ一言にして悉す」などとキッパリ言われれば一体それは何だろうと興味をかきたてられますが、答は「不可解」であるとうっちゃりをくらわせます。これでは何も言ってないのと同じです。この一文だけでは短絡的な懐疑主義としか思えません。どのくらいの深みから出てきた言葉なのかわかりませんが、行動がともなっていることが、それを深いものに見せています。ただ、文としては、内容が深いようでいて浅い、レトリックで人を酔わせるものです。

何がいいたいかというと、明治の煩悶青年たちが何かに悩み、悩みをこじらせ、少ない言葉で早まった結論をだしてしまうのは、全て言語の問題ではないかということです。言葉の使い方ひとつでもののとらえ方がまるで変わってきます。言語の問題、つまり脳内の出来事なのに、それを外界に接続し物理的に解決しようとして身体を毀損してしまうのは、取り返しがつかないことになってしまいます。

「巌頭之感」を、あくまで文章として読んだとき私が面白いと思ったのは、冒頭では「悠遠な時空間/五尺の小躯」が対立していたのに、末尾では「大なる悲観/大なる楽観」という相反するものは対立せず一致してしまうことです。この文章にある眩暈のような魅力は、この不一致から一致への飛躍が語られていることにあると思います。岩波茂雄も、この「巌頭之感」を何度も読んで泣いたそうです。

 

〔付記2〕岩波文庫と「読書子に寄す」

円本ブームをつくった改造社の『現代日本文学全集』は全巻予約させて購入者を縛るものでしたが、岩波文庫は読みたいものだけを読むという分割販売でした。岩波文庫巻末にある「読書子に寄す」にそれをはっきりうたっています。

「…近時大量生産予約出版の流行を見る。…分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである」と批判し、岩波としては、「万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し…この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする」と方針を示します。

この「読書子に寄す」は名文と言われ、パロディもよく作られていたので、高校生のころ暗唱していましたが、いま読み返すと結構挑発的で驚きます。

岩波文庫は古典が中心ですが、あまりに古くさいと批判されることもあります。そもそも古典は限られていますから、ネタ切れになること必定です。著者が生きているうちは岩波文庫に入らないと聞いたこともありますが、近年その縛りは少し緩くした感じがあります。




参考文献

『岩波茂雄伝』安倍 能成、岩波書店、1957年

『岩波茂雄と出版文化 近代日本の教養主義』村上 一郎、講談社学術文庫、2013年

『筑摩書房の三十年 1940-1970』和田 芳恵 、筑摩選書、2011年

『小尾俊人の戦後――みすず書房出発の頃』宮田 昇、みすず書房、2016年

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