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佐久の歴史散歩その1 熊野皇大神社 恋愛パワースポット

新年あけましておめでとうございます。農政課の歴男Uです。
今回は軽井沢の隠れた(有名な?)恋愛パワースポットを紹介します。

吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山 穿つ隧道二十六
これを見て、県歌「信濃の国」を口ずさんだ人は優秀な長野県人です。

軽井沢の旧軽井沢銀座から車で五分ほど山道を登って行くと、長野県と群馬県の境、旧碓氷峠に、熊野皇大神社(くまのこうたいじんじゃ)があります。中央の急な階段を登ると三つの宮が並んでいます。中央の本宮は長野県と群馬県の両県に跨って鎮座しており、左側の長野県に那智宮が、右側の群馬県に新宮が鎮座しています。群馬県では単に熊野神社と呼ばれています。宮司さんも二人おり、熊野皇大神社は水沢家、熊野神社は曽根原家が代々勤めています。御祭神は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)等です。


神社入り口。鳥居の前の敷石を見ると、赤い字で左側が長野県、右側が群馬県と書いてあります



中央が本宮、左が那智宮(長野県)、右が新宮(群馬県)


本宮は賽銭箱も2つ。長野県側は左に入れましょう。


 何時頃創建されたかは不明ですが、神社の伝えられている由緒記、「日本書紀」景行紀には、日本武尊が蝦夷征討(坂東平定)を終え、帰途碓氷嶺に差し掛かった際、山の神が白鹿に化けて手向かってきたので、蛭を打ち付けて懲らしめると、急に濃霧が立ち込め前に進めなくなった。そのとき1羽の八咫烏(ヤタガラス)が現れ、紀州熊野の梛木(ナギ)の葉をくわえ、落としながら先導し、それについて行き山頂まで登ることができた。日本武尊は遠くの海を眺め、相模灘で荒波を鎮めるために海中に身を投じた最愛の妻、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲び「吾嬬者耶(あづまはや)」と嘆いたという。日本武尊はこの八咫烏の導きを熊野神霊の御加護と考え、熊野三社を祀ったとされます。(因みに古事記では碓氷峠が足柄峠とされています。どちらが正しいのでしょうか。長野県人にとっては日本書紀が正しいと思いたいのですが)
 何となくロマンチックですね。この神社が恋愛のパワースポットと呼ばれる由縁です。境内に「吾嬬者耶」詠嘆の地という碑があります。そこからは晴れていると群馬県が眼下に見えます(残念ながら曇っていて見えませんでした。また、手前の木々が邪魔で見にくいです。見るなら後述の見晴台が良いです)。

群馬県側にあります。この日は視界が悪く見えませんでした。


 さて、この熊野皇大神社の長野県側に注連縄が張られた大きな御神木があります。樹齢850年以上といわれるシナノキです。胴回り数尋ほどもある大きな木ですが、幹は空洞になっています。因みに群馬県側の御神木は「イチイ」だそうです。
 シナノキは「科(しな)の木」で、樹皮は繊維にして布や縄にし(シナ織り)、内部は軟らかく加工しやすいので木椀や箸等日用品に利用されたそうです。この「科」の語源は「結ぶ、括る、縛る」で、葉がハート型をしている(ハート型に近い形をしている)ことから開運・縁結びのスポットとして人気があります。因みに、「信濃国」は古事記には「科野国」と記されていて、「しなの」の語源となっているのは有名です。
このシナノキを時計回りに1周すると1年長生きするといわれています。


 長野県側の社務所では「しなの木守」というお守りを売っています。シナノキの幹に空いている穴にお守りを入れ、祈祷されたお守りだそうです。サッカーファンの皆さんならご存知の八咫烏のお守りもあります。


 階段を下りて鳥居に向かって左側には後醍醐天皇の第四皇子宗良親王が読まれた歌碑があります。

 君がため世の為何か惜しからむ捨てて甲斐ある命なりせば 
 
 本来は、親王が足利討伐の折り、戦勝祈願をした際に詠んだ歌ですが、若いカップルであれば恋の歌にも読めるでしょう。



 バスで登ってきたほうに、50m程戻り、左に行くと見晴台があります。晴れた日は、群馬県側では妙義の山々や関東平野の一部、長野県側では軽井沢の街並みや浅間山、遠くにはアルプスも見えるそうです。
 ところで、この碓氷峠、古くは碓氷坂(薄日坂)と呼ばれていたようですが、この坂が現在の旧碓氷峠なのかははっきりしないようです。入山峠(現碓氷バイパス)ではないかという説もあります。

左:群馬県側妙義山          右:長野県側離山

 
 この見晴台に万葉集の歌碑があります。

 日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ(十四巻 3402)
 ひな曇り宇須比の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも(二十巻 4407)
 
 防人歌、東歌ですが、日本武尊でなくても、碓氷坂を通る旅人、またそれを見送る人双方にとって忘れえぬ場所には違いありません。ここにもロマンを感じます。

 神社には車で行けますが駐車場が狭いです。シーズンには旧軽井沢銀座の観光会館前等から赤いボンネットバスが神社との間を往復しています。
 
 標高が高く冬は寒いですが、その分訪れる人も少なく本来の碓氷峠の雰囲気が味わえます。
 正月、初詣にいけなかった人は、大事な人を誘って出かけてみませんか?

 


普通の人はこれで満足して帰るところですが、まだまだロマンチックな場所があります。
神社を通り過ぎて、旧中山道坂本の宿方面に2,3分下っていくと、「思婦石(しのぶいし)」があり、以下のように刻まれています。

 ありし代に かへりみしてふ 碓氷山 いまも恋しき 吾妻路のそら(関橋守)
 
 関橋守は江戸時代の上州の国学者、横川関所守で、日本武尊が妻を恋い偲んだことを詠んだものと言われています。

 
 もう少し足を延ばしましょう。道が三本に分かれていますが、「一ツ家」と書かれた方に歩きます。ここから先は中山道の往時をしのぶような道です。ハイヒールではとても歩けないのでスニーカーで行ってください。



 100m程下ると赤い立派なお社があります。「碓氷貞光神社」です。碓氷貞光は、平安時代の妖怪退治で有名な源頼光の四天王の一人で武力に優れ大変な力持ちであったそうです。ちなみに四天王の一人に坂田金時、そう、あの足柄山の金太郎もいます。碓氷峠(山)と足柄山(峠)、碓氷貞光と坂田金時、偶然でしょうか?




 社の脇に石碑が立っています。

  八万三千八三六九三三四七一八二四五十三二四六百四億四六

と刻まれています。皆さん、なんて書いてあるか読めますか?

 山道は寒く寂しな一ツ家に夜毎身にしむ百夜置く霜
 
という意味だそうです。
 その昔、兄源頼朝に追われた義経は、武蔵坊弁慶らとともに険しい山中を逃避行しており、晩秋のある日一ツ家に数泊した。その折、弁慶がこの悲しい逃避行を数字に託して詠い、爪で石に刻んだと言い伝えられています。
 当時の一ツ家は、現在の位置よりさらに下ったところにあったとされ、初代の碑は天明3年の浅間山の大噴火とその後の土石流で行方知らずで、現在の碑は明治42年頃建立されたものです。

 ところで、長野県側にも碓氷貞光神社があります。峠から軽井沢方面に少し下った右側に小さな祠があります。鳥居は農業用の緑色の支柱で、縄が張ってあります。待遇の違いは何なんでしょう?


  
 最後に、神社正面にある「元祖力持ちしげのや」さんの駐車場が神社に向かって右側にあり、その奥に碑が立っています。「みくにふみの碑」です。



四四八四四七二八億十百三九二二三四九十四万四二三四万六一十
 
さて、なんて読むのでしょう?

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