信州魅力発掘人

信州に魅せられ、活動する人たちの言葉には「信州の魅力」が凝縮されています。信州の魅力を掘り下げ、それを語る「信州魅力発掘人」。山の強さ、美しさ、厳しさ、素晴らしさを知る人たちが「山の魅力」を伝えます。

山×気象予報士 vol.2

黒味岳山頂からの屋久島・宮之浦岳

大学3年生の冬、富士山の合宿中に起きたアクシデントで、大けがをした猪熊さん。2年かけて回復し、そこから「第2の登山」をスタートさせます。

病に倒れそうになっても、山への思いは変わらなかった

- 正直、登山を辞めようとは思わなかったんですか?

皆は、辞めるだろうと思っていたみたいですが、私は登りたくてしょうがなかったです。もう就職して働いていたんですが、そのころ母校がチベットのチョムカンリに挑戦するという話があって。どうしても行きたいと思い、会社を辞めて、2年間のブランクを埋めるトレーニングを始めました。

- それで、チョムカンリへ?

私ともう1人で登頂したんですが、本当にいい登山でしたね。山は、自分の実力ギリギリのところを登るのが一番楽しい。当時の私にとっては、まさにそういう山でした。海外の山の魅力も知り、もっと多くの山を登りたいと思ったんですが、今度は劇症肝炎になってしまって…。そのころは定職に就いてもいなかったし、「このまま死ぬかもしれない」と、大きな不安を抱きました。何とか治ったんですが、内臓は足のけがとは違って、高所登山には致命的なんです。医者からも辞めたほうがいいと言われたのですが、自分で確かめたいという気持ちがあって。

骨髄炎から奇跡の復活でハーフマラソンを走れるように。大町マラソンにて

赤谷山からの剱岳。剱岳北方稜線を宇奈月から剱岳まで完全踏破

- …また山に?

そのころ、後輩が山で亡くなったり、講師を務めていた国立登山研究所で大きな事故があったり、母校の大学でも事故があったりと、いろいろなことが重なりました。母校の山岳部は、一時活動停止になっていたんですが、再開に向けて動き出したときに、コーチとして学生と山に行ことになりました。落ち込んでいる学生を何とか元気づけたいと思い、学生とともに再びヒマラヤに行き、高所でも体が動けることを確認できました。そこで、より困難な課題に挑戦したいと思い、2003年には社会人のクライマーとともに、エベレスト南西壁側壁から西稜という非常に難しいルートに挑戦し、登頂はできませんでしたが、非常に大きな経験になりました。ただ、体のダメージは大きく、登山から帰ってくると、40度前後の高熱に1週間程度うなされるようなことが続き、まさに命を削る登山だったと思います。

その頃は、既に山岳専門の旅行会社に就職しており、自分で企画を立ててツアーを組んで、どんどん忙しくなっていく中で、仕事は面白いけど自分のトレーニングに時間が割けなくなってきて、この先どうしようか…と考えていたときに、慢性骨髄炎が発症しました。

- 今度はどんな病気に…?

簡単にいうと、骨がどんどん腐っていく病気です。原因は、あの富士山のときのけがでした。それでまた、入院生活に。慢性化すると、完治が非常に難しい疾患で、症状が悪化するたびに入院して治療しなければなりません。多いときは、一年のうち半年は入院生活という中で、山登りどころか、今の仕事を続けていくことも難しいと思うようになりました。そこで、気象予報士が浮かんだんです。

- どうしてそこで、気象予報士が?

病気を抱えていても、自分の技術を使ってやっていけるかもしれないと思いました。実は、子どものころから、天気は好きだったんです。オタクって言ってもいいくらい。山岳部時代も天気予報が得意でした。気象予報士はもちろん、沢山いらっしゃるけれど、ヒマラヤやヨーロッパ・アルプス、ロッキー山脈やニュージーランドなど、自分ほど国内外で登山経験が豊富な気象予報士は多分いないだろうと・・・。だったら、ここを土俵としてやっていこうと思いました。

- 病気がきっかけで、気象予報士の道へ進んだんですね。

それまでずっと山一筋できたので、目標が急になくなって、心にぽっかり穴が開いたようになりました。何か新しいことをスタートさせないといけない、ある程度大きな目標があれば頑張れる、と思いました。実際、試験勉強はすごく支えになりました。入院すると、勉強する時間はたくさんありましたし。それで、無事に合格できたんです。

- “山岳”気象予報士となったのは?

慢性骨髄炎を発症してからは、登山に登れなくなった自分を直視したくなくて、山から自分を遠ざけようとしました。山の話を聞くだけで、辛くなるからです。あるとき、山岳部のコーチも辞めようと思って、コーチ会へ行ったんです。そうしたら、何かすごく居心地が良くて。辞めるつもりで行ったのに、家族に囲まれているような暖かい気持ちになって、ここを離れてはいけないんじゃないかと感じたんです。

- 以前も感じた、猪熊さんの「居場所」なんですね。

迷う中で、ふと、自分は今まで山から多くのものをもらってきたと気付きました。肉体的、精神的な成長、素晴らしい仲間、そしてこれまで見てきた大自然の風景。そう思ったら、登れないから山から遠ざかるというのは、なんてバカなんだろうと。登れなくても、できることはたくさんあるんですよ。

ヤマテン事務所から夕陽に染まる八ヶ岳

- そこで“山岳”気象予報士に。

ビジネスとしてやっている人はいないと思いました。だったら、マーケットとして可能性はある。どのくらいいい予報が出せるかは分かりませんが、登山をここまでやっている気象予報士は日本にはいないだろうと思いました。

- 山への恩返し、だったんですね。

これまでも、天気で痛い目にあったこともありますし、富士山の事故だって突風が原因なので。山の天気予報を出すことが、登山者の安全につながっていくのではないかと思いました。


山岳気象予報士という道を模索し始めた猪熊さん。ちょうどそのころ、日本人初の8000メートル峰全14座の登頂者である登山家・竹内洋岳さんと病院で(!)再会し、エベレスト登頂の際の予報を出すことになります。「海外は想定外で、難しくてできるかどうか分からなかったんですが、面白いと思ったので」と猪熊さん。結果、予報は的中。メディアで取り上げられたこともあり、山岳気象予報士としての仕事が入ってくるようになりました。

PROFILE
1970年、新潟県生まれ。1995年に中央大学法学部卒業後、登山専門旅行会社勤務を経て、気象予報士に。2011年、国内初の山岳気象専門会社「ヤマテン」を設立。日本テレビ「世界の果てまでイッテQ」の登山隊やNHK「グレートサミッツ」など国内外のテレビ、映画の撮影のサポートも。中央大学山岳部監督、国立登山研修所専門調査委員及び講師も務める。「山岳気象予報士で恩返し」(三五館)、「山岳気象大全」(山と渓谷社)など著書多数。

LINEで送る

このブログのトップへ