じょうしょう気流 「上小(じょうしょう)地域」と聞いて、みなさんは長野県のどの地域を思い浮かべますか?「上小地域」は、上田市、東御市、小県郡長和町、青木村の2市1町1村からなり、群馬県の西側に接する地域です。「上小」には自然、歴史、文化、おいしい農産物など、さまざまな魅力がありますが、それらを上田合同庁舎の職員の目で見て綴り、皆さんにご紹介してまいります。

じょうしょう気流

「上小(じょうしょう)地域」と聞いて、みなさんは長野県のどの地域を思い浮かべますか?「上小地域」は、上田市、東御市、小県郡長和町、青木村の2市1町1村からなり、群馬県の西側に接する地域です。「上小」には自然、歴史、文化、おいしい農産物など、さまざまな魅力がありますが、それらを上田合同庁舎の職員の目で見て綴り、皆さんにご紹介してまいります。

真田家ゆかりの古城跡 -砥石城跡―

地域政策課のYです。

上小地域の信州百名山を紹介するシリーズは、これまで、独鈷山太郎山四阿山湯の丸山烏帽子岳子檀嶺岳を登りまして、「信州百名山」としてはすべて紹介しました。しかしながら、その他にも登って楽しい山はまだまだありますので、これからもシリーズを続けていきたいと思っています。

今回は、その番外編として、真田家ゆかりの山城の跡砥石城跡(といしじょうせき)を「登った」ので紹介します。

砥石城跡は、旧真田町と旧上田市の境、上田菅平インターチェンジから車で5分くらいのところに登り口があります。
砥石城は、太郎山の東隣にある東太郎山の北から南に延びる尾根を活用しており、尾根の上に4つの城が南北に並んだ山城群です。南から「米山城(こめやまじょう)」「砥石城」「本城」「枡形城(ますがたじょう)」と並んでいて、東と西からは、「切り立った」と言った方がよいくらいに急勾配で、攻めるにはたいへん難しい地形に立地しています。

この城の築城時期はよくわからないそうですが、戦国時代、今の坂城町を本拠地にしていた村上義清が上田地域に進出した際に自分のものにし、その後、真田幸隆(幸村の祖父)が村上氏から乗っ取って、以降は真田氏の城となりました。

このいきさつは後ほど紹介するとして、この日は、南側の伊勢山地区から登りました。駐車場からすぐのところから石畳が整備されていて、そこを登っていくと、地域の方々が平成19年度から21年度にかけて整備した東屋と「櫓門」があります。この日、櫓門は登れるようになっていました。

櫓門からほぼ直線の坂を登っていくと米山城と砥石城へ行く道の分岐点に。まず米山城に行くことにして登ること約5分。上田市街地を見下ろす台地には村上義清の碑がありました。

そこから分岐点に戻って砥石城へ。いきなりの急坂。ロープも張ってあって、つかまって登らなくてはいけない人もいるだろうなあ(って言って帰りはつかまらなければ降りられませんでした)。その先は階段が整備されています。なければ急すぎて登れないかも。帰りに数えたら約280段ありました。戦国時代、こんな坂を甲冑や具足を付けて上り下りしたなんて、昔の人はすごい!!



階段を登りきると砥石城跡(最初の写真)。南西に上田市の中心部がよく見えます。遠くを見ると、うっすらと独鈷山と夫神岳も。

そこからさらに北に向かって坂を上り下りすること数分。本城跡です。今は半ば林になっていて周りの見通しも良くないのですが、「本城」なだけに面積は4つの城の中で一番広いそうです。そこから北へ行くと最も高い場所(標高800m)の枡形城に行きますが、今回は本城から砥石城を通って帰りました。この次にはぜひ枡形城へ。

砥石城は、真田氏の歴史を語るうえで欠かせない城です。そこで、最後にエピソードを少し。村上義清が治めていたときに、北信濃への進出をねらっていた武田信玄が砥石城を激しく攻めましたが結局落とせず、やむなく撤退するときに敵の攻撃を受け千人もの人が討死したそうです(砥石崩れ)。信玄はその2年前にも上田原の戦いで村上義清に敗れており、村上氏はあの信玄を2度も破った名将なんですねえ。
でも、砥石崩れの後、信玄の配下であった真田幸隆は、どんな手段でかはよくわからないようですが、一日で砥石城を奪ってしまい、その後、息子の昌幸が上田城を築くまでの約30年間、この城が真田氏の東信濃における本拠地になったのです。村上義清は、その後、本拠地である坂城町の葛尾城(かつらおじょう)も失い、越後に逃れ、上杉謙信の下に入ることになります。
砥石城は、上田城築城後も支城として残り、江戸時代に入っても幸村の兄の信幸が守っていましたが、信幸が上田から松代に転封され廃城になったとのこと。

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