北信州からごきげんよう 北信地域の現地機関からのお知らせとともに、千年風土の豊穣の地「信越自然郷」の魅力をお届けします。

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楓蔦黄(もみじつたきばむ)頃 北信合同庁舎に佇む『下髙井唱歌』の碑

地域政策課Mです。北信合同庁舎の窓から見える景色もすっかり秋色となりました。

「桜も、もみじもどっちも綺麗~」「里山も綺麗だなぁ」と眺めておりましたところ…

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秋時雨… 紅葉していた桜の葉が散り始めました。

アスファルトに散った葉が寂しげな風情で、ちょっとセンチメンタルになります。

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その桜の木の下にあるモニュメントが、「下髙井唱歌」の碑です。

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平成12年に「下髙井唱歌の碑を建てる会」から寄付されたもので、横4.2mの台座二段の上に横3.3mの高社山をモチーフとした、高さ2.5mの大きな碑には、下髙井唱歌の歌詞、楽譜、建立由来、旧下高井郡略図が刻まれており、由来を読むと、当時この唱歌を後世に残そうとした方々の思いが伝わってきます。

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そこで、「この碑について何か知っている人はいるかしら」と、ネット検索をしてみましたが、この碑の写真を紹介している個人ブログが1件見つかっただけでした。

「忘れ去られないように…」と、碑の建立に携わった方々の気持ちを思うと、なお、寂寥感が増すのでした。

下高井地方事務所が北信地方事務所に統廃合、後に北信合同庁舎に碑が建てられ、そして今、北信地方事務所にMが勤務しているのは、きっと何かのご縁と思い、ここに、碑に刻まれた「下髙井唱歌」と碑銘を掲載します。

 

井唱歌

藤沢 倉之助 作詞

早川 喜左衛門 作曲

一  我等の住める下高井 東西九里に南北は 十有餘里に跨りて

面積五十三方里 二十の町村をちこちに 地勢のまに――分かれたり

 

二  高く聳ゆる山々は 民の稼ぎの苗場山 秋の納めの大倉や

横手岩菅笠が岳 郡の志づめと峙つは 高井富士てふ高社山

 

三  流るゝ川のかずかずは 南に篠井又夜間瀬 北に樽川志久見川

ゆきかふ白帆たえやらで 洋々北に流るゝは 西を限れる千曲川

 

四  六ツの花散る多かれど 志ろかね世界眺めよく 雪の遊も面白や

春さりくれば打ちとけて やがて泉の源となり やがて稲田にそゝぐなり

 

五  延徳木島南北の 二つの平打ち開け 民は豊に地は肥えて

春の値付け心地よく 田の面黄金に色づける 秋の眺めは尚更に

 

六 こがいの業もいと開け 製糸林業はた機業 内山紙に蔓細工

竹の細工に子持ち箸 輸出の量もいやまして 生産いとゞ豊かなり

 

七  繁華の土地は中野町 商工常に賑へり その南なる延徳に

沿ふは高丘日野平野 続く長丘平岡の 北には科野また倭

 

八  出湯富める平穏村 南穂波に北夜間瀬 木島穂高や上木島

往郷瑞穂に豊郷の 夏も涼しき野沢の湯 やがて市川堺村

 

九  名も恐ろしき地獄谷 喊満瀑布のもみぢばや 山吹匂ふ雄たる瀧

夙に其名の高社や 小菅北野の神やしろ いづれ心をひかざらむ

 

十  平家のあとゝ聞えたる 山の奥なる秋山や 網を切りにし渡場も

小館の城の其の跡も 名のみ止めておとづるゝ 人の昔を忍ぶのみ

 

十一 象山翁の拓殖の 事業のあとも残るなり 農工商のむきむきに

萬餘の戸数六万の 人々互に一致して とも″――揚げむ高井の名

 

十二 聳えて高き山のごと 流れて早き川のごと 學びの道によどみなく

稼ぎのわざに勤まば 進みに進む日の本の 光をなどか添えざらむ

 

野雲太田舛次 書

 

※ 碑文(縦書き)で「くの字点」・「くの字点(濁点)」が使われている箇所を、「――」「″――」で表記させていただいておりますこと、ご了承ください。

なお、読みは、一番の「まに――」は「まにまに」、十一番の「とも″――」は「ともども」です。

 

霎時施(こさめときどきふる) 「郡のしずめとそばたつ、高井富士という高社山」に虹がかかりました。

山頂は雲の中。神々しい。。

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~碑銘~

下髙井唱歌の碑

下高井郡は 明治十二年の太政官布告により高井郡が上・下高井に二分された地域で 同二十二年の町村制施行による町村合併によって一町十九ヵ村に統合編成され 近代的町村の幕開けとなりました

日清戦争後 信濃教育会に唱歌教育の動きが高まり 明治三十二年に浅井冽作詞による「信濃の国」が発表されました その流れを汲んで唱歌教育に力を注いでいた藤沢倉之助(現山ノ内戸狩)が 明治三十六年に「下高井唱歌」を作詞し 早川喜左衛門が作曲して発表し 大正時代までは小学校や青年会などで盛んに歌われました

昭和二十九年には 新市町村合併促進法によって中野市が誕生したのを始めに 三十一年までに次々と町村合併が進み 郡境を挟んで飯山市・栄村が生まれ 郡内では山ノ内町・木島平村・野沢温泉村が発足するなど 地図はすっかり塗り替えられました

こうした歴史の変遷の中で下高井唱歌は次第に忘れられ 今この歌を知る人は高齢者の一部となり やがて消え去るかも知れません

しかしこの唱歌の歴史的な重みから それが消滅することを憂慮し 後世に伝える意義の大きさを考えた旧下高井郡民の有志数百名が会員となって この歌碑を建立いたしました

平成十二年九月二十一日

下髙井唱歌の碑を建てる会

 

 

 

 

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